#444 ザ・ベストテン | 漂流バカボン

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何か適当なテーマを自分で決めて自分で勝手に述べていこうという、そんなブログです。それだけです。

木曜夜9時。

『ザ・ベストテン』は、TBS系列で1978年から1989年まで放送されていた歌のヒットチャート番組であり、日本のテレビ放送の歴史に残る、高視聴率の人気番組でした。

 

 

この番組は、年代でいうと、自分が小学校高学年から大学入学の頃まで続いていました。

もちろん自分は、毎週木曜日になると、この『ザ・ベストテン』の放送を心待ちにしていましたし、この番組で、本当に様々な歌謡曲、演歌、アイドルの曲、ニューミュージック・・・と、ジャンルを超えて様々な曲と出会うことが出来ました。

 

小学生の頃、この『ザ・ベストテン』を見た次の日は、学校では友人の間でこの番組の事が必ずと言っていいほど話題になり、ランキングのあれこれや、歌手の衣装やセットのこと、「トシちゃんと聖子ちゃんが、後ろの席で並んで座ってた」などたわいもないことで、あれこれ盛り上がっていました。

 

この番組の、列車の行先表示板のようなランキング発表ボード、歌手が登場するミラーゲート、歌い終わった歌手が座る白いソファと、その中で一つだけルビー色に輝く「ルビーの指輪 12週連続1位記念ソファ」など、セットの一つ一つが懐かしく思い出されます。

 

 

そして、この番組を素晴らしいものにしていた一番の要因。

 

それは、久米宏と黒柳徹子との、二人の絶妙な司会ぶりでした。

 

やや暴走気味の黒柳徹子を、久米宏の機転でうまくコントロールしていく様は、子供の時分に見ていても下手な漫才よりも面白かったほどで、まさに名コンビの二人でした。

 

 

この番組は生放送であり、様々なハプニングやトラブルもありました。

音が出ない、出演者が来ていない、歌手が歌詞を忘れる・・・など、今の管理された放送番組ではまずお目にかかれないハプニングシーンを、いくつも目の当たりにしました。

 

でも、そんなハプニングも、自分たちにとっては格好の話題にもなりましたし、それも含めての番組の面白さでした。

 

また、この番組の特徴として、様々な地域からの中継もありました。

「追いかけます お出かけならば どこまでも」。

これは、まさに自分のブログの#1に取り上げた松宮一彦のフレーズ。

この『ザ・ベストテン』の元祖追っかけマンとして、様々なロケ地からの中継で活躍していました。

 

このような歌謡ランキング番組ですが、『ザ・ベストテン』の人気にあやかって、日本テレビ系列でも『歌のトップテン』の放送が始まったり、確かフジテレビ系列でも、短命ではありましたが、高島ひでたけが司会のベストテン番組(『ビッグベストテン』だったかな?)がありました。

 

でも、やはりそれらランキング番組は、率直に言って『ザ・ベストテン』の二番煎じ的な番組にしか思えず、毎週見るには至りませんでした。

 

小学生の時から、自分は一貫して『ザ・ベストテン』を見続けてきましたし、毎週のチャートを記録したりもしていました。

 

ただ、途中で久米宏が司会を降板し、その後は小西博之や松下賢次などが司会を務めてきましたが、やはりパワーダウンは否めず(黒柳徹子は孤軍奮闘頑張っていましたが)、またこの頃から、歌謡曲というジャンルの衰退や、おニャン子関連でチャートが荒れはじめ、全く知らない曲がいきなりランキング上位に入ってきて、次週には消えていくなどの現象が繰り返されるにつれ、自分もやがてヒットチャートに対する興味も失ってしまいました。

 

そんな時代の変化もあったのでしょうが、1989年に、この番組も放送603回をもって終了してしまいました。

 

この『ザ・ベストテン』を初期の頃から作り上げてきた、ディレクター山田修爾の回想録、その名も『ザ・ベストテン』という本があります。

 

 

この本を読むと、1970年代から80年代にかけての、当時のテレビマンの情熱と苦労がひしひしと伝わってきて、読んでいてとても面白く、また懐かしい気持ちになりました。

残念ながら山田修爾は数年前に亡くなられてしまいましたが、この本を読むと、自分が子供の頃に観ていた憧れの番組の舞台裏が、相当な苦労のもとに作られていたんだという感慨を抱きます。

 

何しろ、自分は『ザ・ベストテン』の思い出が多すぎて、このブログに書ききれないくらいですが、以下断片的に思い出してみると・・・。

 

・「テレビには出ない」と言っていた松山千春。「季節の中で」が1位を獲得した際に、特別に一度だけ出演し歌った。(その後、「長い夜」でも出演しましたが・・・)

 

・郷ひろみが、「マイ・レディー」という曲で1位だった際、スタジオへの到着が間に合わず、番組終了ぎりぎりまで歌い続けた。

 

・当時国鉄の車掌でもあり歌手であった伊藤敏博。雪深い鉄道の駅からのロケで「サヨナラ模様」を歌った。

 

・山本譲二が、「みちのくひとり旅」を褌一丁だけの裸で熱唱。

 

・大川栄策が特技の「タンス担ぎ」を披露。

 

・西城秀樹、「Young Man」で驚異の9999点(パーフェクト)での1位。

 

・新幹線で移動中だった松田聖子が、新幹線の停車時間に合わせて駅で歌いながらそのまま新幹線に乗り込んだロケ。

 

・「ザ・ベストテン400回記念in静岡」で、「雨の西麻布」歌唱前に観客にブチ切れて暴れまくった、とんねるず石橋。

 

・「い・け・な・いルージュマジック」での、忌野清志郎と坂本龍一のキスシーン。(これは当時中学1年生の自分には衝撃でした)

 

・杏里が「悲しみが止まらない」を歌っている時に、セットにいた猿が杏里の脚をタッチし、杏里が笑いこけて歌えなくなったシーン。

 

・シャネルズが登場した際、視聴者からの質問コーナーで、「シャネルズは、黒人のくせに、何でシャネルズというおしゃれな名前なんですか?」という質問に対し、黒柳徹子が泣きながら「黒人のくせに」という発言に抗議したこと。

 

・サザンオールスターズが最初登場した時に、曲作りがうまく出来ず、歌っている途中に「ノイローゼ、ノイローゼ!」と叫んだこと。そして、黒柳徹子が桑田佳祐のことを「息子」と読んで可愛がったこと。(黒柳徹子は、桑田佳祐のことをデビュー当時は危なっかしいと思っていて、普段から「自分の息子」と言っていれば、桑田に何かあっても自分が守ってあげられると思っていたとのこと)

 

・田原俊彦が「原宿キッス」を原宿でゲリラ的に歌って混乱をきたしたこと。

 

・シブがき隊「NAI・NAI 16」で薬丸が振り付けに失敗し尻もち。

 

・さとう宗幸「青葉城恋唄」で、ロケでの歌唱でスタジオと音が合わずグダグダに。

 

・・・・・・

 

こう書いてみると、やはり生放送によるハプニング的な事が、一番印象に残っているようです。

 

でも、今のテレビでは、このようなハプニングというのはほとんどお目にかかることはありませんし、もしあったとしても「高度の技術」(?)でうまく処理されてしまいます。

 

でも、「昔は良かった」とはあまり言いたくない台詞ですが、この頃の『ザ・ベストテン』のちょっと緊張感を孕んだ生放送はとても面白く観ていましたし、そんなハプニングをも許容するおおらかさが、当時はあったような気がします。

 

何かにつけ今の世の中は、その当時から思うと、いつの間にか結構遠い地点にきてしまったような気がしてなりません。