2024/01/12の、三宮から見た山の電飾。


KOBE

1.17


いつもの電飾に、地震があった日にちが点灯されている。1995年1月17日、午前5時46分。


あの日は、まだ妹とも一緒に住んでいた。タカラジェンヌだった祖母も一緒にいた。


私は大阪で、地震が起きる前に、ちょっとだけ前年だったか定かでないが、韓国に旅行で遊びに行ってハマりかけていた、韓国語の会話の本を読んで就寝。


地鳴りで目が覚め、洋服ダンスの扉が開いたか開いてないか、揺れが、地鳴りが。


地鳴りが大阪でも、ゴーーーッと聞こえ、もう死ぬと思った。ゴジラの世界。この世の終わり。


いつもと違う、あわてベッドから飛び出して、歩ける程ではなかったのに走って、妹と祖母を見に行った。2人抱き合って寝た状態で起き上がれなかったようだ。


私の目の前を、食器棚から飛び出したお皿が、フリスビー🥏のように飛んでいった。


あれ、母親は?


洗面台の柱で、立っていて洗面台の柱に捕まって動けずにいた。


もうひとつの部屋も、大事にしていたオーディオコンボが崩れていた。


しばらくして、車で通勤したら帰れないと思って休みの連絡のため、会社に携帯と、固定電話で電話したが繋がらず、駅まで行き、公衆電話で職場にかけたら繋がった。


絶対公衆電話は、無くしてはならない。


当時、まだ今のように低血圧でなかったので、私は会社(学校の先生)で、早く会社に到着して、給湯器のお湯沸かしたり、モーニングを食べに行くメンバーに入っていたので、何が何でも会社に出勤すると思われていた。車通勤だったから、パンクや、渋滞に巻き込まれたくなくて、早く出勤していた。


実際に、通勤がない近所の先生が1時間目だけは授業を行っている。


この後、崩れたオーディオコンボをなぜか私は、処分してしまった。コレクションしていたカセットテープも、レコードも、当時なぜか潔く処分してしまった。大きな被害を知って、思うところがあったのかも知れない。なんでそうしてしまったのかは覚えていない。音楽が好きな姉妹だったが。


色々と記憶も薄れ覚えていない。


大好きだった女の先生の先輩は、阪神大震災で価値観が変わり、仕事を辞めて、ボランティアに専念した。だけど、辞められて一度2人で食事に行ったが先輩は後に、自殺されてしまう。すごく優しい先輩だった。


マルビルで知り合った方は、神戸で倒壊した住宅の生き埋めになり、友達とおばあちゃんを亡くされ、自分は救出され助かった事で、人をめちゃくちゃ大事にされている。


あの地鳴りは聞いた人間は、一生忘れないし、公衆電話があれば、場所をチェックする癖も抜けない。


地震の3日前には、妹と、梅田でランチをしてからタカラヅカを観劇に行っている。宝塚大劇場も地震で崩れてしまった。


私がこれを書く事で、何も変わらないが、かなりの影響を地震は、経済でも与えてしまう。


ずっと水の備蓄と、大きい物が倒れてこないように、寝る場所には気をつけています。


阪神淡路大震災。


2024/01/17日