一等いい鉛筆を買うくらいの贅沢
20171207
「一等いい鉛筆を買うくらいの贅沢」をして生きていたいと強く思う。この言葉は梶井基次郎『檸檬』の一節である。
梶井基次郎を知ったのは、他の大半の人がそうであるように私も高校の教科書で出会ったわけなのだが、出会い方は少しばかり違うだろう。
授業中に夏目漱石『こころ』の朗読をしているときのことである。授業中の順番に当てながらの朗読というのは眠くなりもするし、黙読で先に先にと進んで読んでしまったりして、一度読み終わってしまっていた。読み終わったしまったのならやることは無くなって、クラスメイトの声を聴きながら文字を追うか、窓の外の飛行機の下りる数を数えるかくらいしかやることがない。
そんなときである。「面白い小説載ってるで」と近くの席にいた当時仲の良かった友人が勧めたのが、この『檸檬』という小説だった。おそらく次の単元でするようだが、予習ならばしてしまってもいいだろう。今は『こころ』の時間だけれど、気分までももう先へ先へと進んでしまっていたのだから、『檸檬』に辿り着いてしまっても罰は当たるまい。
私は単純で、この短編を一度読んで「好きだ」と気が付いた。この小説が好きだ。内容に出てくるもの全てが好きだ。きっと、この作家も好きだ。一目惚れしてしまったのである。
その後の授業で扱ったとき、私は些か得意気だ。この小説が素敵なことを、この教室の誰よりも知っている。自分が誰よりもこの小説が好きなことを疑わない。
そうして授業は予定通り進んでいく。一文一文を丁寧に読み解きながら、担任は説明をしていく。
そのとき、妙に印象に残ったのがこの言葉だった。
「一等いい鉛筆を買うくらいの贅沢」
それは贅沢なのか?ということから話は始まる。鉛筆は贅沢なものではない。高くても数百円。ブランド物のバッグや、きらびやかな宝石でもない、たった一本の鉛筆。けれどこれは贅沢なのである。さてはて、これはつまりどういうことなのか?
先生から解答はすぐに示される。これは「必要ではない物を買う」という贅沢なのだと。自分の好きな、けれど必要ではない物を買うという贅沢。それが私の目にはあまりに素敵なことのように思えたのだ。
私には好きなものがある。文具であったり、本であったり、絵であったり。雑貨屋さんに行くのも好きだから、素敵なものに心を奪われることは多い。
だからこそ、だろう。この気持ちが手に取るように理解できた。だって、経験があるのだから。必要ではない物、けれど決して高くないものを手に取ってレジへと向かう。その満足感は、どうにも形容できないが、胸を綻ばせるような豊かさがある。
そんなわけで、私は今日も必要ではないけれど好きなものを、「一等いい鉛筆を買うくらいの贅沢」をして、心を満たされる。擦りきれた心に活字の形をした黒いインクを染み込ませるように。どこか潤った心はそのまま安らかな眠りに就けることを約束してくれる。
今回の小さな贅沢は、いつものように小さな贅沢ばかりを集めた本棚に置いた。その本棚をぼうっと眺めながら寝室へと向かう。
好きなもの、けれど決して高くない、しかし必要ではないもの。そういった不要なものの中にこそ、自らの心というものがあると信じている。
