芸能王国渡辺プロの真実。

━ 渡辺晋との軌跡 ━

元渡辺プロダクション取締役・松下治夫

発行日: 2007年 7月12日。

 

 

続き。3回目。

 

p129~130

渡辺プロダクションが発足した当時、芸能プロダクションはレコード会社や映画会社の一部門だったり、大物タレントが個人でマネージャーを雇っていたりとさまざまだった。(中略)所属タレントが歌や芝居の興行で稼いだ出演料の一部を仲介手数料として受けとる、いわゆる仲介業者だった。

 

そうした芸能プロダクションの構造を、一大転機させたのが、渡辺プロダクションである。

テレビ番組の制作やレコードの原盤制作など制作業務への進出、またそれに並行して音楽著作権やタレント肖像権の契約・管理といった権利ビジネスへの進出・・・・。

つぎつぎと斬新な改革に手をつけ、そのいっぽうで、芸能プロダクションを企業として組織化し、

 

今日における芸能プロダクションと芸能ビジネスを作ったのは、渡辺晋社長と渡辺プロであり、プロダクションの中で渡辺プロのみが企業として組織化されていたので、唯一の芸能王国として君臨していたが、他所も同じことをやり始めると、さらにノウハウを持ったスタッフが独立していって、衰退したということですね。

 

p236~239 あとがき

いつからだろう、ぼくと社長の考えが少しずつズレていってしまった。(中略)特に、代理店もレコード会社も絶対もつべきじゃない。ぼくは社長にそう言った。

 

とくに会社の花形である制作部は能力のある一流のマネージャーが揃っていた。のれん分けではないが、マネージャーたちをそれぞれ独立させ、会社を持たせ、渡辺プロダクションがそれらの子会社を統括する。(中略)それを実現させる計画も進めていた。でも、その途中で、社長は迷ってしまった。そして、結局踏み切れなかった。

 

病魔に冒されたということもあった。(中略)そして実際、毎週会議を招集し、すべての事柄にますます関与するようになった。それまでマネージャーに任せていたことまでも、逐一報告させ、指示するようになったのだ。(中略)息苦しさを感じたマネージャーたちがどんどん会社を辞めて独立していった。

 

そうした人たちがそれぞれ芸能プロダクションをつくって、いまや大手のプロダクションとして芸能界に君臨している現状を見ると、あのとき分社化に踏みきっていれば・・・とつくずく残念に思う。

 

松下治夫が、自分が渡辺プロを辞めた経緯については、「社長と考えがズレていってしまった」としか書いていない。いくら組織のために尽くしても、しょせんは番頭にすぎない。六代目山口組でいうと、総本部長であった二代目宅見組組長・入江禎のようなものか。入江は何を血迷ったか、六代目親分を裏切って逆賊組織の副組長に就いたが、松下はそのような不義理をしなかった。

 

週刊平凡 1980年5月29日

「ぼくがやめたから沢田研二も独立するという話は、100パーセント事実無根だ。ぼくがこれからやる仕事は、『渡辺プロ』の業務内容に抵触しないようにタレントのマネジメントはいっさい引き受けない。したがって沢田の独立はこれからもありえない」

 

マネージャーたちのように、渡辺プロの業務を侵食するようなことはしなかった。

 

p232

渡辺プロダクションを辞した後、ぼくはミュージカルの世界に入っていく。(中略)曲がりなりにもプロデューサーとしてその後の人生を過ごしてきた。

「アニー」「42nd Street」「ライル」「ジプシー」「ゴールデン・ボーイ」「ザ・リンク」はその主な

 

「ザ・リンク」これは、

1993年
出演:夏木マリ、島田歌穂、
秋野太作

 

のことではないのか。1994年の記事を他所様のブログから拝借して引用。

 

━ 真保ちゃんが、昨年は大きな舞台にたたれて芸能界入りされたって言われてましたね。

 

天地 ありがとうございます。三月にブロードウェイ・ミュージカルの「ザ・リンク」に出ました。夏木マリさんがおばあちゃん役、島田歌穂さんがお母さん役で、真保が子ども役でお芝居をやったんですね。

 

━ 何かきっかけでもあったんですか。

 

青木 はい。そもそもは、僕がそのミュージカルの関係者とプロデューサーと四谷で会って話すチャンスがあったんです。知人ですから飲む席で酒を飲みながら話していたら、突然「天地さんとこの子、何歳だっけ」って言われましてね。5歳だって言ったら「それだったら、ミュージカルに出ない?」って誘われたんですね。

 

渡辺プロでは、松下制作部長と天地真理さんは、あまり相性が良かったようには見えないが、この「ザ・リンク」のプロデューサーは、松下のことかもしれない。

 

おわり。