この10年間、ジュリーは社会風俗にどんな変化をあたえたか。
 

沢田研二さんの結婚直前、1975年5月頃の記事です。ジュリーにとって、第2章か3章なのかわからないが、結婚によって一区切りがついた時期に、ジュリーとその時代を振り返ってみるという、7ページもある長い記事を切り取り引用。何か興味を引くネタがあるわけではないが、手元にあるので引用。

 

平凡スタア 1975年7月。

 

 

ちょうど一か月前の五月三日夜、東京・中野サンプラザホールで開かれた沢田研二の春のコンサートホールを新聞は「さながら、新しく生まれた社交界」と報じた。(中略)沢田とファンには、長い道のりを、一緒に歩き、ともに育って来た信頼関係があるようだった。

 

六月からTBSテレビで始まる沢田主演のドラマ『悪魔のようなあいつ』の(中略)この年末には時効になる三億円事件の犯人に、沢田は扮するわけだが、

 

沢田の周囲には、日本で初めて生まれるかもしれない〝スーパースタアと呼ばれる男〟への期待と、その足がかりになる状況とが、集められている。GSブームの貴公子から九年、沢田は新しいタイプのスタアへの道を、着々と歩いてきたようだ。

 

もはやアイドル的狂騒とは無縁の存在になっているので、結婚によって人気に陰りが出る心配はなく、さらに上を目指せるという話だが、期待通りに、結婚したこの六月から急上昇していったようです。

 

沢田研二の所属したザ・タイガースは、1967年、NHK出演をしめ出された。

 

おとなが禁じれば禁じるほど、GSブームは過熱した。

 

沢田研二にとって、これは奇妙な受難の時期といっていいだろう。熱狂的な支持を、ティーンの女の子たちから受け、数多くのヒットソングを生み出しながら、おとなたちからは認知されるどころか、迫害に近い扱いを受けたのである。

 

GSブームは業界の、おとなたちに演出されてもいた。(中略)結果、GSたちのレパートリーは、急激に青春歌謡化し、異端児たちは牙を失う。GSブームは三年前後という短命さで、衝撃的な風俗としての幕を閉じることになる。

 

タイガースはアイドルグループではなかったのか。渡辺プロなど、最もタレントの管理が厳しく自由の利かないプロダクションだが、いったいどんなプロデュースと支持のされかたをしていたのか。そんなタイガースが市場を制圧してしまったのでGSブームが終焉したということなのか。プロレスの台本がめくれて支持を失ったのか、グループ内部のゴタゴタが原因か、ただ飽きられたのか、よくわからないが、まあ何でもいいだろう。

 

71年4月3日と4日、沢田研二は日比谷の野外音楽堂で、唇をかみしめることになる。ザ・タイガースを解散(中略)PYGというロックグループを作っていて、(中略)その中で、沢田は、客席から「帰れ!」「ひっこめ!」のヤジを受け、楽屋では白眼視に耐えなければならなかった。

客や共演者たちの、一致した考えは、沢田らを、女子供のアイドルと見ていることだった。GS全体がそうで、

 

沢田研二はまたここで、奇妙な試練の時期を過ごすことになる。実は沢田研二は、この時期が、最も解放されていた。(中略)その、一番いきいきとし、時間的にロックに没頭できる時期、沢田は、共演者や聴衆から、はじき出されてしまう。

 

これも必要な過程であったということだが、

 

GSのスタアたちは、堺正章、井上順がコミカルなタレントに変身、萩原健一が個性的な演技者として成功したくらいで、大方は消えた。なお歌いつづけ、実績を重ねつづけているのは、沢田研二ひとりである。

 

GSの時代からアイドル歌謡全盛の時代へ、沢田研二だけ生き残れたのは、沢田が年齢的にもアイドルだからであり、アイドルとして生き残れたということだろう。

 

それは同時に、ザ・タイガーズ時代からのファンに愛され続けながら、新しいファンの開拓にも成功していて、支持層が年齢的に上下に、広くひろがっていることも立証している。作詞家の安井かずみは、沢田のために〟虚構の愛〟を書きつづけてきたという。

 

沢田は以前として、ロックを中心に、好きな歌をうたうコンサートをやっているが、教育者たちも、もうニコニコしている。フォークの世界も、ロックの世界も、もうとっくの昔に〝コップの中の嵐〟の時期を終わった。

 

疲れてしまったので、引用はこれで終わり。幾多の試練を乗り越えて、スケールの大きなスタアになったという記事だが、結婚後には、さらに大きな試練(不祥事)に直面することになります。

 

おわり。