天地真理さんの父親についての記事。以前に「天地真理をわずか2歳で手放した実父の慟哭」などのタイトルで、以下略。

 

1stアルバム「水色の恋」が驚異的な売り上げを記録して、2ndシングル「小さな恋」の予約も絶好調と、いよいよ本格的に天地真理ブームが始まった1972年1月後半、2歳のときに生き別れた実父がメディアに登場して、空白の日々と胸の内を語る・・・という記事を切り取り引用。

 

 

週刊平凡 72年2月17日。

 

 

この会社の社長・斎藤新太郎さん(54歳)。小太りで、いつも温和な笑顔を見せ、この界隈でも「良心的な不動産屋として評判のこの人は、じつは天地真理が2歳のときに別れた、実の父親である。

「真理ちゃんが小学校へ通っているころ、1回だけ校庭の近くへ行って、あの子の後ろ姿を見ました。それいらい、いちども会っていませんが、忘れたことはありません。

 

「住まいと事務所の地名をどうか書かないでくれ・・・。自分の写真も掲載しなでほしい」といったことばに、別れた娘への、やさしい思いやりがあふれていた。

 

天地真理さんと生き別れになっていた実父が出てきて、 という記事ですが、昔の芸能界でよくあった、有名になったとたんに金の匂いを嗅ぎつけた親族が出現して・・・という話とは違うようです。父親は、再婚相手と二人の子供と家庭を築いて、事業もうまくいっている。雑誌の記者がやってきたから取材を受けただけのようです。

 

昭和13年、徴兵検査で甲種合格になると、(中略)毎日のように死んでゆく戦友たちを見ながら、斎藤さんは老酒や白乾など、強い酒を浴びるように飲みつづけた。

 

長い戦場生活と広島上空を飛んだときの体験は、終戦のとき、彼を虚無の底に突き落とした。

「戦後の混乱期に、私は生き抜くために、いろんな職業を転々としました。よい思い出はひとつもない。なにをやったか、いまでは覚えてもいません」と、振り返る。

 

昭和25年、斎藤さんは戸部きみさんという女性と結婚した。天地真理が生まれたのはその翌年、26年11月5日である。

 

当時としては珍しい『陸王750CC』(単車)を乗りまわしては、夜になると毎晩酒を浴びるように飲み歩いた。ケンカもした。いちどとして負けた記憶はない。

 

戦争がどんなに斎藤さんの心に深い影を落としていたかを想像させるにじゅうぶんである。この荒廃した心は、やがて気丈な戸部きみさんとの結婚生活を破局に導くことになった。

 

昭和28年10月、真理がようやく2歳になろうとするとき、ふたりはついに離婚。

 

しかし、斎藤さんはその離婚のいきさつを語ろうとはしない。母の戸部きみさんも同様だった。

 

昭和13年に徴兵検査に合格ということは、大正7年生まれくらいか。最も戦争の影響と被害を受けた世代ということになるが、離婚のいきさつについては、そんな記事が後に出てくるので、次回。

 

仲人(かつて斎藤さんと、きみさんの仲人をつとめた人)からときどき真理ちゃんの消息は聞いていたんですが、ある日、彼がやって来て、〝おたくのお嬢さんが芸能人になるらしい〟という話をしたんです。

 

仲人の人は、母親の方にも出入りをしていたので、お互いの消息はわかっていたということです。

 

いまの商売を大きくして、オヤジとして恥ずかしくないようになったとき、真理と会いたいと思っています」

 

週刊平凡の取材を受けたのは、娘と再会したいという意思表示だったようです。真理ちゃんは、有名になったとたんに父親が出てきて警戒しただろうし、不快であったに違いないが、バイク、酒、ケンカに負けたことがない・・・ そんなエピソードもまた嫌だったに違いない。

 

週刊明星 73年1月21日。

 

約1年後の73年1月、

 

離婚のさい、娘は母親が引き取るが、父親が養育費を出すという約束だった。だが、この約束は、守られていない。真理が実の父に対して、いまだにひっかかるのも「養育費を出すといって出さず、母に大きな迷惑をかけた」ということもある。

「養育費を出さなかったのは事実ですし、何も弁解するつもりはありません。いまどう説明しても、真理ちゃんにわかってもらえることじゃないと思ってます」

 

第一、この私には、いまさら自分が父親だといってしゃしゃり出る資格はありません。

 

「実は、真理ちゃんのために、心にきめていることが一つあるんです」

 

「まあ、将来何かの形で真理ちゃんの力になることができたら、こんな幸せはないですね」

 

娘との再会を願う父親に対して、真理ちゃんは「会いたくない」というものでしたが、1975年4月に、22年ぶりの再会を果たすことになります。

 

 

おわり。