渡辺プロ、伝説のマネージャー 菊池哲榮さん、続き。

 

菊池哲榮さんが天地真理のマネジメントをしていたのは、1974年3月頃までだと思われますが、他所のサイトで菊池さんのロングインタビュー記事があるので、そちらから勝手に引用させてもらいます、

 

 

会社組織には合わないですよ。結局、天地真理と私はケンカ別れするんですが、ケンカ別れをして喜ぶのは会社です。天地真理をやっと思い通りにできるわけですからね。その後、井上堯之バンドと沢田研二のマネージャーを担当するようになって、そこで井上堯之さんと出会うんです。

 

「ケンカ別れ」とありますが、マネージャー交代の時期にちょっとしたイザコザがあったのか、それが交代の原因になったのか、わからないですね。

 

2018年「天地真理への100の質問」から引用、

 

「誰もいない海」は確か浅草国際劇場でのワンマンショーで歌いました。その前にデビュー当時から担当してくれていたマネージャーが代わったので、涙を流しながらこの歌を歌った記憶があります。

 

浅草国際劇場のショーとは、1974年3月25日 ~31日でしたが、その時期の記事をさがしてみると、

 

週刊明星 74年4月7日

 

3月12日に番組の収録か何かで(記事では見学のためとなっているが)築地市場へ訪れた際に、群衆が暴徒化して警察が出動する騒動になったという記事ですが、事件とマネージャー交代は何も関係ないかもしれない。

 

私はアーティストのためにならないと思ったら、全て拒否していました。

全てはアーティストを守るためです。

 

1973年の天地真理さんのスケジュール(外国へ5回行っている)と、73年末からの売り上げの低下を見てみると、想像がつきますね。一番稼いでくるので会社も文句をいえないが、売り上げが落てくると、もう菊池の好きにさせないぞ、となって、マネージャーとタレントの関係もギクシャクしていったのかなと思いますね。

 

1974年は、沢田研二は、前年暮れに歌謡大賞を受賞して歌手としてもう一段上を目指す年であったが、天地真理に上がり目はなかったので、それで敏腕マネージャーを付け替えたということかもしれない。

 

「ジュリー・ロックンツアー’74」というのをやりました。これが私の記憶にある「初めての大型全国ツアー」なんですよ。それまでは地方の興行師の方達が「この日に来てくれ」と依頼されたスケジュールに従って行くだけだったんですが、「この日からこの時期まで全国ツアーで回るぞ」と連絡し会場を押さえて、沢田がデザインした11tトラックで全国を回るんです。それが今ある全国ツアーの原型ですね。

 

あんな大がかりなのはなかったですね。沢田研二のようなビッグアーティストがやるのは初めてだと思います。ツアーは大成功で、みんなキャッキャッ喜んでお祭り騒ぎのようでした。

 

マネージャー交代後の沢田研二さんと天地真理さん、二人の明暗は分かれていくのですが、いわゆる「アイドル」の原型を作ったのは天地真理であるし、タレントのキャラクタービジネスもそうなのではないか。渡辺プロという組織でやった仕事であり、マネージャー1人の能力ではないかもしれないが、マネジメント能力が凄かったのは間違いない。

 

週刊明星 74年7月14日

 

菊池哲栄さんの結婚披露宴に、天地真理が出席したという記事。

 

 

 

週刊明星 76年4月18日

 

 

キャバレー回りを始めて紅白に落選して、どん底に落ちてしまったが、4月に新曲「矢車草」と郵便貯金ホールのリサイタルで復活をするという記事。

 

74年春くらいから、あてもない散歩をしてた暗いところへのめり込んだ、と語ってますね。

 

週刊平凡 77年3月10日

 

76年暮れから調子が悪くなっていて翌年の1月に入院。2月20日に退院して5日後、騒動の経緯と今後の決意を語った記事。この時は近いうちに復帰する予定だったが、2年半復帰できませんでした。

 

「デビューのころ、私についていてくれたマネージャーが、とても親身になって仕事をしてくれて・・・。だから、その人が私の担当をはずされたときは、なんともいえない寂しい気持ちでした。

 これからは、他人に頼らず自分ひとりでやっていかねば・・・ そう思いながら、いつのまにか、人気が落ち目になったとか生意気になったとか噂されるようになると、自分でもわからなくなってきたの。私自身は、いつも変わらず一生懸命にやってきたつもりなのに・・・

 同じ努力、同じ仕事をしているのに、いろいろいわれることですっかり自信をなくして、いちじは歌手をやめようと思ったこともありました」

そんな心の悩みをかかえて50年の2月、真理は思いきってヨーロッパへ旅立った。

 

デビューの頃からの精神的支えだった人を失って、不安定になっていった。何事もうまくいかなくなってしまった、という話ですね。マネジャーというものは会社の人事異動で変わってしまうものであり、いつまでも頼っていてはいけないし、独り立ちをしていかなければならないが、そう思って気負ってやればやるほど生意気だといわれてしまう。守ってくれていた人がいなくなって、内から外からのバッシングを直に浴びてしまう。

 

1974年は、スキャンダルなど一つもなかったが、くだらない噂話や中傷記事を次々と書かれてしまって、気丈に一つ一つ反論していたが、かなりつらかったようですね。

長期休暇をもらって75年2月にヨーロッパへ旅立ったが、それがスキャンダルになってしまって・・・

 

2年半の休養を経て1979年に復帰したときには、菊池さんは渡辺プロを退社した後でした。

 

おわり。