今回は、野球の話。中日ドラゴンズ監督の立浪和義は、選手時代に積み上げた成績は立派であるが、タイトル争いとは無縁で、シーズンごとには突出した成績を残したこともなく、派手な言動をしないクールなキャラクターであり、東海地区ではスーパースターであっても、全国的にはそう目立った存在ではなかったように思いますね。それが監督になってからの立浪は、その言動は何でもネタにされてしまって、野球界の話題を独占するような存在になっているようですが、しかし、今回は監督としての話ではなく、選手時代の話。

 

私は今は野球など全く見ないが、子供の頃は大変な野球マニアでドラゴンズのファンであったので、立浪が入団してきた時のことはよく覚えている。高卒1年目の1988年開幕戦に、2番ショートでスタメン出場をした。この年の打撃成績は、打率223、4本、18打点、新人王とゴールデングラブ賞を受賞。この打撃成績で新人王とは、さぞかし守備がうまかったのだろうなと思われるのですが、そんなことはなく、ベストナインを受賞した池山隆寛よりうまかったとは思えないし、昔からGG賞というのはいいかげんな賞なんですね。

 

当時の解説者が、立浪は逆シングルで獲らない獲れないといっていた記憶があるが、新人で逆シングルをうまくこなす選手などいないし、高卒新人がショートを守りきったのは驚異的ではあった。打率は後半失速してしまったが、むしろ打撃センスが光っていた。余談になるが、坂本勇人のように、すぐ横のゴロまで逆シングルでとるという、横着ではあるが、あれは坂本ワールドですね。


1990年に結婚。まだ21歳であり、相手は年上の女で、いわゆるできちゃった婚だったのですが、中日スポーツに掲載された奥さんになる人の写真が悪かったので、悪い女に引っかかってしまったな(失礼)と残念に思いましたね。当時は、中日の貴公子くらいに思っていたのですね。PL学園時代の映像を今見てみると、かなりあれですが、1コ上の近藤真一、山崎武、長谷部裕のようなオラついた感じはしなかったし、愛知県の中京、享栄、などの高校にはチンピラみたいな学生がゴロゴロいたので、さわやかな好青年という感じもしたのですね。

 

中日選手時代の落合博満が、「立浪は超一流選手になれる」そのようなことを言ったことがあるのですが、立浪はあれで完成形のような感じであったし、当時は何をいってるんだと思っていたのですが、練習しない。ストイックではない。センスだけで野球をやっている。そんなことを言いたかったようですね。それで、中日時代の落合が手本になるような存在であったのかどうか、それについてはいつか書くかもしれない。

 

1996年の日米野球で、レフトを守って背面キャッチをするというスーパープレーを披露したことがあり、日本選抜には、イチローも佐々木も松井もいたが、大リーグ選抜の監督が、印象に残ったのは「立浪の外野の守備」と答えたのを覚えている。立浪は外野の練習などしたことがないはずであるが、内野手だからできたプレーなのかもしれない。

 

96年のシーズンは、打撃は絶好調で、二塁手としてGG賞を受賞したが、監督の星野仙一が、「若年寄」とコメントしていたので、まだ27歳くらいであったが、全プレーをベンチから見ている星野がそう言っているのだから、動きが悪くなっているんだなと思った記憶がある。立浪の引退後のコラムで、高木守道監督(92年~95年)から真剣に諭されたことがあって、下半身などキッチリ鍛えることにしたので、それで長くプレーすることができた、というそんな(うろ覚え)。

 

私は1998年頃にドラゴンズファンから巨人ファンへ転向してしまって、野球自体を見る時間も減っていったので、その後の立浪についてはあまり見ていないし、書きだしたらキリがないのでこのへんでやめておきますが、

 

引退直後に、立浪の背番号3を永久欠番に、という話がどこかから出てきたときに、監督の落合が中日新聞のコラムで、「中利夫さんでも高木守道さんでも欠番になっていないのに云々」

 

中利夫と高木守道はともかくとして、永久欠番というのは、戦死した人や、川上、金田、長嶋、王、この人たちのためにあるようなものなので、球団が真剣に検討していたとは思えないし、本人もそんな話は困ってしまうのですが、落合がそんなことをわざわざコラムに書いたというのが印象に残りましたね。

 

おわり。

 

なぜか野球関連で唯一手元に残っている本。

 

1985年と86年は極度の打高投低であった。