多分生まれてから一度も嘘をついたことのない人っていないですよね?
言葉の上手く話せない乳児や幼児を除けばですが。
では何故、大人は子供に「嘘はダメ」と教えるのでしょうか?
誰もが嘘を吐くのになぜダメなのか不思議ですよね。
しかしだからと言って嘘をOKとしてしまうと大変なことになります。
以前虚言癖の人と一緒に仕事をしたことがあるのですが小さな仕事で利益も微々たるものだったのに本当にヘトヘトになりました。具体的に書くと名誉棄損になるので書けませんが本当によく恥ずかしくもなくそんな嘘がつけるなぁと感心するような人でした。
そんなこんなで明確に嘘の良し悪しを答えられる人って少ないのではないでしょうか?
そんな難問のヒントが初期仏教(テーラーワーダー仏教)の本に書いてあったのを昔読んだのですが、何しろ初期仏教の本にハマっていたのが6~7年前。
本も20冊以上は読んでいて現在手元に残っているが数冊しかなく、どの本に嘘の罪について書いてあったのかは忘れてしまいました。
なので…適当に私が好きな著者の初期仏教の本を紹介しつつそのときに読んだ内容を説明しようと思います。
ブッダ曰く「嘘は”人の時間を奪う”と言う意味で”殺人”と同じくらいの重い罪になる」そうです。
そして殺人の罪はその人の残りの人生=寿命までの時間を奪うことにあります。
嘘もそれと同様に相手の時間を奪います。
嘘に対してリアクションした時間は死んだ時間という解釈です。
なので嘘は殺人に匹敵する…時には殺人を超える罪になるそうです。
(超えるというのは時間だけでなくエネルギーも無駄にするからでしょうか…分かりません)
ちなみに殺人の罪の重さは”誰を殺したか”によって決まります。
殺してしまった相手の魂のレベルが高いと世界としての損失エネルギーが大きくなり自動的に背負う罪も大きくなってしまう=地獄に落ちる…というシステムになっているそうな。
同様に嘘も”誰に対して嘘を吐いたか”=”誰の何をするはずだった時間とエネルギーを奪ったか”によって罪の重さが決まります。
逆に嘘が罪にならずに正直であることが罪となるケースもあります。
例えば誰かの命を狙っている悪党に対し狙われている人の所在を正直に教えると罪になり、嘘を教えて狙われている人の命を助けると善行になります。(この場合も狙われている人の魂のレベルによって罪や善行の大きさが変わります。)
そんなワケで嘘の是非は完全にケースバイケースであり 「善き人の時間とエネルギーを奪ってはいけない」という観点でしか判断できないのです。
そしてこれは「嘘も方便」と言われるような”人を喜ばす嘘”においても同様であり、その喜びによって善き人が時間やエネルギーを無駄にするようなことがあれば罪となるのです。(何等かの良い結果を生んで無駄にならなければ大丈夫ということでもあります。)
それにしても嘘の是非という難しい問題の答えをここまで明確にできる初期仏教って本当に凄いと思います。
何気ない嘘で万が一ハイレベルな人が時間を無駄にしたら大変なので嘘はなるべく吐かない方が安全という事ですね。