「じゃあね」


それが最後の言葉だった。


彼女は出て行った。


振り返る事も無く、軽やかに。


共に過ごした時の長さを置き去りにして。


トニー・タンジーニを置き去りにして。


トニーが彼女に初めて出会ったのは、ダウンタウン

の安キャバレー。


下手くそなラインダンスを踊る大勢のショーガール

の中に彼女は居た。


最初からトニーの目には彼女しか映らなかった。


満面の作り笑顔で踊る女達の中で、彼女だけが

笑っていなかった。


ニコリともせずに、誰よりも高く脚を上げ、

誰よりも早くターンを決めていた。


周りと同じ衣装、同じ振り付けなのに、彼女は

誰とも合わせようとしていなかった。


ただのショーガールが女王に見えた。


彼女のためのショーだった。


スラムで育った貧しいイタリア移民のトニーに

とって、彼女こそがニューヨークだった。


その日から毎週末、店に通った。


マーティングリーンフィールドで仕立てたダブルの

スーツに、コードバンのウイングチップ、仕上げに

ボルサリーノを斜に乗せ、真っ赤な薔薇を100本抱

えて、毎週通った。


当時、ファミリーから小さなシマを分けてもらった

ばかりのトニーにとってはバカにならない出費だっ

たが、そんな事はどうでもよかった。


彼女が欲しかった。


だが、彼女は振り向かなかった。


花束は受け取ってくれたが、それ以外のチップや

宝石、アクセサリーなどのプレゼントは一切貰おう

とはしなかった。


「あたしのスタイルじゃないのよ」 


デートの誘いも全て断られた。


2ヶ月近く通ううち、トニーにも段々と彼女の事が

分かって来た。


ある夜、トニーは意を決して店を訪れた。


ダンガリーシャツにセンタープレスの入ってない

チノパンツ、デッキシューズに洗い晒しのザンバラ

髪という姿で。


その日、トニーは店に入らなかった。


店の外で待った。


まだ肌寒い、春の日の良く晴れた夜。


4時間11分後、凍えかけた手に何度目かの白い息を

吐きかけていたトニーの前に彼女は現れた。


初めて見る私服姿の彼女は、洒落た仕立てのタイト

なスーツを粋に着こなし、刺さりそうなヒールのま

ま、まるでシャッセを踏む様に軽快な足取りで店か

ら出て来た。


すぐにトニーに気が付き、立ち止まる。


プライベートタイムに踏み込むというルール違反を

犯しているトニーを咎める事も無く、じっと見つめ

て来る。


眉一つ動かさず、見つめて来る。


あの目。


今もまだ、トニーの胸を焦がす。


女王の目。


タイガー戦車を止める目。


一瞬竦みかけた足を奮い立たせ、トニーは彼女に歩

み寄り、その7フィート手前で跪く。


そして、歌った。


朗々たるテノール。


『カルメン』の「花の歌」だ。


誰もがクスクス笑いながら通り過ぎて行く。


だが、彼女は笑わない。


全霊で歌うトニーのアリアを、身じろぎもせずに

聞き入っている。


やがて、歌い終わったトニーは恭しく差し出す。


一輪の、しおれた白い薔薇を。


言葉は無い。


ダウンタウンの雑踏の中、2人の視線がからむ。


とても、静かに。


まるで時が存在していないかの様に。


そして、彼女は受け取った。


力無く頭を垂れ、花びらの端が少し黄ばんだ

冴えない白い薔薇を。


暫し、ためつすがめつし、そして…


そして、彼女は笑った。


トニーに笑った。


その夜、トニーはニューヨークを手に入れた。


誰かが言った。


「ニューヨークの空に星は無い」と。


だが、それは嘘だ。


ニューヨークの空にも星はある。


少なくとも、あの頃の二人には見えていた。


二人はいつも一緒だった。


いくつもの夜を、ホテルの屋上で星を数えて

過ごした。


彼女が膝を痛めて踊れなくなったあの日まで。


ブロードウェイの夢が絶たれてからも、彼女は

トニーの女王であり続けた。


ファミリーの男達のほとんどは女を装飾品の様に

扱っていたが、トニーは違った。


彼女の言葉には耳を傾ける価値があり、トニーには

それを受け入れる器量があった。


実際、彼女は頭が切れた。


直感的に本質を見抜く目を持っていた。


トニーは彼女に何度も救われた。


中国人と抗争になった時など、彼女の助言で命拾い

したのは一度や二度ではない。


トニーはちゃんと理解していた。


自分がファミリーのボスの座に着けたのには、

少なからず彼女の存在が影響しているという事を。


彼女は掛け替えが無かった。


スクランブルエッグひとつ、まともに作れない

女だったが。


正直、彼女と共に生きる生涯を考えた事もある。


正式に夫婦となり、家族となり、子供を作り、

共に老い、共に静かな余生を過ごす。


そんな夢を。


しかし、そういう話題が出そうな雰囲気になると

彼女は必ず目を逸らし、席を立った。


くるりと向けた背中が物語っていた。


「あたしのスタイルじゃないのよ」


頑固な女だった。


トニーが贈ったジバンシィにもバレンシアガにも

見向きもしなかった。


頑なにウンガロしか身に纏おうとはしなかった。


理由は聞くまでもない。


「あたしのスタイルなの」


だからこそ、五日前突然彼女から別れ話を切り出さ

れた時も、トニーは引き止めなかった。


一度言い出したら聞かない女だという事は、トニー

が誰よりも良く知っていた。


ただ、ひとつだけ聞かずにはいられなかった。


「何故、今なんだ?」


彼女は深く吸い込んだ紫煙をゆっくりと吐き出し、

トニーの目を真っ直ぐに見つめて言った。


「…これ以上一緒にいたら、あたしはあなたのママ

になっちゃいそう。あなたとは、最後まで男と女で

いたいのよ」


納得出来なかった。


理解出来なかった。


きっと、世界中の男が誰も分からない、女だけが

感じる理由なのだろう。


それでも、トニーは彼女を引き止めなかった。


『何故なら、俺にとって彼女は…』


コココンッ、という軽いノックの音でトニーは

現実に引き戻された。


「失礼します」


ドアを開けてジュリオが入って来た。


3ヶ月程前からトニーの身の回りの世話係を務めて

いる若者だ。


「ボス、例のメキシコ人が来ました」


「…ああ、そうだったな」


肩越しにそう答えたボスの声色に、ジュリオは

軽いショックを受けた。


これ程力の無いボスの声を聞くのは初めてだった。


初めてボスの背中が小さく見えた。


『あの女のせいだ…』


ジュリオはボスを尊敬していた。


心の底から。


崇拝していると言っても過言ではない程に。


自分と同じただのチンピラから、己の度胸と頭脳

だけでファミリーの頂点にまで上り詰めた男。


トニー・タンジーニ。


生ける伝説。


駆け出しのジュリオにとっては、まさに憧れの存在

であり、ヒーローだった。


ただひとつだけ…


どうしてもジュリオには納得出来ない事があった。


『なんで、あんな女と…』


ジュリオは彼女が嫌いだった。


正妻なら分かる。


ちゃんと籍を入れて、子供を産み、家庭を守ってい

る女房なら、まだ理解出来る。


だが、あの女はただの情婦。


ただボスの下で股を開いているだけの敷布団だ。


なる程、昔は美人だったのだろう。


だけど、今の彼女はありふれた中年女じゃないか。


シワだらけの顔に厚化粧を塗りたくった、お高く

止まっているだけのおばさんだ。


若い頃は売れっ子のショーガールだったらしいが、

今じゃあ見る影も無い。


ウエストだって、俺が女に許容出来るサイズを

3インチはオーバーしている筈だ。


そんな女が、あの偉大なボスの隣に居る。


いつも、いつも。


それだけでも腹に据えかねるのに、あの女はボス

の仕事に口を挟んで来るのだ。


単なる愛人が、敷布団如きが、男の仕事に意見して

来るのだ。


偉そうに。


何様のつもりだ。


女は家に居れば良いんだ。


子守をして、パスタを茹でて、ベッドでケツを振っ

ていればそれだけで良いんだ。


まったく…


でしゃばり女め。


ボスもボスだ。


どうしてあんな女の言葉に耳を貸すのか。


まるで女房の尻に敷かれたダメ親父じゃないか。


訳がわからない。


だが…


あの女は出て行った。


やっと、ボスの元から去って行った。


あばずれはあばずれなりに、身の引き際を弁えて

いたという事か。


ともあれ、これで一安心。


の筈が…


あの偉大なボスが、これ程はっきりと感じ取れる

くらいに気落ちしている。


たかが、あばずれ一匹の為に。


…だめだ。


あってはならない。


ボスのこんな姿。


とても見ていられない。


「あの…ボス」


ジュリオはおずおずとトニーの背中に声を掛けた。


「正直言って、俺はあの人が出て行った良かったと

思ってます」


トニーの肩がぴくりと動く。


「俺はずっと、あの人はボスには相応しくないと思

ってました。男の仕事、それもこの稼業に口出しし

て来る女なんて…。それに、もう歳も歳だったし、

ボスにはもっと若くて見栄えのいい女の方が……」


次の瞬間、トニーの左脇のホルスターに収まってい

たワルサーPPKの銃口が、ジュリオの眉間にピタリ

と押し当てられていた。


釣り上げられたばかりのイトヨリの様に、口をパク

パクさせているジュリオの耳に、遥か彼方からボス

の声が聞こえて来た。


「てめぇみたいな小僧に女の何がわかる…」


地の底から響いて来る様な、低く静かな声。


ボス付きになってまだ日の浅いジュリオだったが、

もう既に学んでいた。


ボスがこの声を出す時は、一線を超える寸前である

という事を。


『…まずい、本気でキレてる』


そう思い、恐る恐るトニーの目を覗いたジュリオは

そこに怒りよりも恐ろしいものを見た。


無。


完全な無。


そこには何の感情も映ってはいなかった。


まるでガラス玉だ。


しかし、その奥。


遥か深淵。


鈍く輝く、暗い光があった。


それは本来、人の中に在ってはならないもの。


血に飢えたケダモノの欲望の毒牙。


その存在に気付いた時、ジュリオは理解した。


トニー・タンジーニをボスの座へと押し上げたのは

度胸と頭脳だけではないという事を。


今、目の前で自分の命を指先ひとつで弄んでいる男

は、根本的に自分とは違う生き物だという事を。


ジュリオの中のボスに対する憧れや尊敬は、別の物

へとその姿を変えた。


人間の生存本能の奥底にある、最も根幹的な感情。


恐怖に。


『ああ、この人は撃つ。なんの躊躇もなく。いとも

簡単に。…死ぬ。俺は…殺される』


膝が揺れる。


膀胱が緩む。


世界が回る。


ジュリオの人生で最も長い8秒間が過ぎた。


そして、ジュリオの涙が滲む目に、ドイツ製の小型

ピストルが再びトニーのホルスターに戻って行くの

がうっすらと見えた。


ジュリオに背を向け、窓に向かって歩きながら

トニーは言った。


「失せろ」


「あっ…はぁっ…うぁ…」


言葉にならない言葉を発して、ジュリオは一直線に

部屋を出て行った。


幸運な事に、右足の爪先を左足の踵にぶつけて転ん

だのは、一度だけで済んだ。


一人取り残されたトニーは窓際に立ち、キャメルに

デュポンで火をつけ、街を見下ろす。


ニューヨーク。


トニーの王国。


女王の消えた王国。


トニーはタバコ一本分の時間を追憶と感傷に使い、

そして忘れた。


青い煙を上げている火種を揉み消すと同時に、彼女

への慕情も捨てた。


足踏みしている暇などない。


この稼業に現状維持はない。


登り続けていない限り、誰かに引き摺り下ろされる

のだ。


「さあ、仕事の時間だ」


トニーはドアへと歩き出した。


ジュリオが言っていた『例の男』に会わなければ。


新しい会計士の候補者に。


たしか、ジャックとかいう男だ。


前の会計士は、コレステロールという名の死神が

心臓に取り憑いて使い物にならなくなったのだ。


信頼出来る男かどうかを見極めなければならない。


『彼女がいてくれたら……』


彼女の人を見る目は、全幅の信頼が置けた。


彼女だったら…


…いや、考えまい。


終わったのだ。


あの日々は戻らないのだ。


ドアノブに手を掛けたままトニーは振り向き、肩越

しにもう一度ニューヨークを睥睨する。


そして、一言小さくつぶやき、ドアを開けて仕事に

向かった。


「じゃあな、グロリア」