もう10月である。
アメブロからブログ書け書けとなにかにつけせっつかれるが、書こうと思っていたネタが、まるで走馬灯のように駆け巡っては忘れてしまうのだ。
老化か。
さて、私はとあるサイトで8年ほど日記を書いている。
しかし、更新頻度はここと同じくらいだ。
アメブロではアッハーンやウッフーンな事は書けないので、主にそっち方面の事を書き散らかしているのだが、まあ8年もいればそれなりに仲の良い人もちらほら出来て来るわけですよ。
それにしても表現が昭和だな。
で、そこで知り合った一人が
「自分は育ちのせいで幸せになってはいけない。いつだってぐずぐずの劣等感にまみれて生きていなければならない。それもこれも育ちのせい。」
という日記を先日書いていて、コメントに困りそっとブラウザバックした。
彼女は中学に上がる頃、叔母さんに引き取られるまで、母親と実兄から虐待を受けて来たという過去を持っている。
自分と似たような境遇であった為か意気投合し、オフでもお会いしたりライン等でも繋がっているのだが、さすがにこんな事を日記に書かれるとちょっと距離を置きたくなってしまう。
まあ彼女、子供三人いて旦那の他にレギュラー彼氏が三人と、ちょこちょこ恋に落ちて付き合う人がちらほらいて、私からすると何をどうしたいのか今ではさっぱり解らない人でもあるのだが。
彼女は1年くらい前に別れた彼氏の事をずっと引きずっていて、時々彼宛てにこのような根に持ってますよ的な日記を書くのだ。
彼女はこの彼と、育ちのせいで消えない劣等感や前の恋愛はさよならもなく終わってしまったからずっと引きずっていること、付き合っても良いけど終わりにする時は理由を言って欲しいという事を言った上で始まった。
しかしだんだん彼の態度が冷たくなっていき、それに耐え切れず「またね」と言われたあと「またなんかねーよ!」で終わってしまってそれっきり。
約束も守らず傷付けるだけ傷付けてチッキショー!と、こういうわけだ。
彼女は彼にとっての自分の立ち位置を分かっていなかったのだろう。
それは育ちのせいで見えなくなっていたわけではない。
育ちを理由に見たくないものに蓋をしてきただけだ。
どこの世界にサイトで知り合った人妻を本気で大事にする既婚の若い男がいるだろう。
彼にしてみれば軽い遊びで、いちいち育ちや過去をを持ち出して暗い顔されたら離れたくもなる。
それを出されても彼にできる事は何もないから。
ちょっと考えれば分かる事だ。
自分を救えるのはいつだって自分だけなのだ。
人に愛されるには、まず自分を愛で満たさなければ、愛されていることにも気づく事はないと思う。
自分語りになってしまうが、私は育ちを理由に自分の可能性を諦めたくなかった。
育ちや過去と向き合う事は、想像を超えた痛みや苦しみが伴う。
だけどその先に、理解と許しが待っている。
幸せになるというのはこういう事の積み重ねで気付いて行くものだと思う。
幸せというのは、もうここにあるのだ。
…ってあっちで書けたら良いんだけど、ヘタレな私はここに書いて発散することにしたのです。
人間関係壊してまで自己主張するほど若くもないし、そんな自分だけの正義感を押し付けるほど無責任なことは出来ない。
何のつながりもないところが、返って好き放題書けるから良い時もある。
いろいろと書いてきたけど、彼女がいつか「育ち」を乗り越えられる日が来ることを
私は心から願っている。