ヘ ブライ語から見る男と女 ―普通名詞から唯一無二の固有名詞へ―
"神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。" 創世記 1章27節ここで「男と女」と訳されているヘブライ語はザハルとネケバー、動物のオスメスを表す言葉である。(6:19ノアの箱舟にのる動物のつがいにも使われている)神は神のかたちとして人間アダムを造った。このアダムは人間を意味する普通名詞。神は人間という種を造られた。種の中には当然オスもメスもいる。例えば神さまは犬を造られた。神さまの造った犬の中にはオスもメスもいる。オス犬とメス犬を別々に造ったわけではない。「男と女につくった」「ザハルとネケバーにつくった」というと2種類の個体をつくったように聞こえるけど、「人間アダムという種をザハルとネケバーで作った」の意味は、神の目には人間は一つで、それはオスでもなくメスでもないし、オスでもありメスでもある、という一致の世界。人間をつくる要素としてのザハルとネケバーと言える。つづく28節では産めよ増やせよとあるし、これはジェンダーではなく生殖の話である。ジェンダー(gender)とは、社会的・文化的な役割としての「男女の性」を意味する語である。人間社会における心理的・文化的な性別、社会的な役割としての男女のあり方、「男らしさ」とか「女はこうあるべき」といった通念を意味する語。しばしば、身体的特徴としての性別(=sex)と対比される。オス・メスは身体的特徴である。なので1:27「男と女に彼らを創造された。」というのはヘブライ語から言えばジェンダーと身体を含めた「男性的オスと女性的メスの2種類を創造された。」とはならない。(この時、社会的性などあるわけもないが)神が神のかたちに造られ愛されたのはあくまでも「人間」。「人間」の中にオスもメスもインターセクシュアルという体を持つ人も、小さい人も大きい人も、黄色い人、白い人、発達障がいという個性を持つ人も、性欲を持たない人も、メスが好きなオスやメスが好きなメスや、女性的なオスやどちらの性別もしっくり来ないメスもいろいろいろいろいて、でも共通なのは「人間」ということ。そして神さまは「人間」を愛しておられる。"人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」" 創世記 2章23節1章で普通名詞のアダムから、3章では固有名詞のアダムとエバになっていく。その間の2章ではイーシユとイシヤーという言葉が使われる。それはザハルとネケバーの普通名詞とはちょっと違う。人間ならではの言葉。ヘブライ語で人間の男と女を意味する。聖書の根源的な語源の意味においては存在意識、自意識の区別と思われ、生殖というより正反対の助け手という意味合い。普通名詞から固有な唯一無二の存在としての2人となっていく。愛し合うためには、まず個人にならなくてはならない。父母を離れて、というのは独立意識のある2人を表している。アダムの中にある二つの部分が独立していき、その二つが一つの肉に、一体になる。唯一無二の存在を自覚するのは、自分の愛する唯一無二の相手がいてこそ。人間アダムの肋骨からイシヤーがつくられるというのは一体となっている人間が独立した個人と個人となって、愛し合う流れを思わせる。顔がぴったりくっついてたら相手が見えないけど、ちょっと離れれば見つめ合うことができる。神さまが人間に自由意志を与えたのも、いったん父から離れて唯一無二の存在として愛し合うためかもしれない。それがイーシユとイシヤーの名前で語られる第二章の人間創造で、エデンの園を出ていく時には、女イシヤーはエバという固有名詞で呼ばれる。"人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。" 創世記 3章20節なぜトーラーはザハルとネケバーまたはイーシユとイシヤー2種類の言葉で人間の創造を語るのか?ザハルとネケバーには固有名詞の話は出てこないけれども、イーシユとイシヤーで話をする2章以降は、人間の男女が固有名詞の存在として認知されていく。これは視点の違う二重の人間創造の物語なのではないだろうか?人間を意味する普通名詞だったアダムは系図にも出てくる固有名詞のアダムになる。唯一無二のアダムは唯一無二の愛するイシヤーをエバという名前で呼ぶようになるのである。互いに唯一無二の存在と感じるのにジェンダーは関係ない 。夫婦も親子も親友もお互いにとって唯一無二の存在 。人が一人でいるのは良くないと神は言われた。一人ではさびしいと感じるのは当たり前なのだ。そういう風にできている。独立した唯一無二の二人の人が愛し合う時、スキンシップをともなう場合、ともなわない場合、性的な行為を含む場合、含まない場合、その形は様々である。大切なのは、その二人にとって何が一番よい形なのかさぐり確かめ続ける事。知り合い続ける事。それが愛し合うということではないだろうか。神は愛でおられるので、愛がある所に共におられる。逆に決まり事を当てはめることを優先すると、愛から離れることもある。夫婦とは、親子とはこういうものという形を人に押し付けたり、無理して当てはまろうと自分を殺したりすることで傷つけあうことは愛ではない。形は時に、支配や暴力の言い訳にもなる。これは逆行なのだ。固有名詞から普通名詞への。例えば、男性器を持った人を男性という一つの言葉でくくって、同じ性質、同じ生き方、同じ幸せの形を当てはめたとして、その型にたまたま近い人は疑問を持たないかもしれないが、たまたま遠い人は心や体を切り落として型にはまる痛み苦しみを味わう。大切な、神の造られた、一点物の、名前のある人間たち。ひとりひとりが違うようにその愛の形も様々で、AさんとBさんの愛とCさんとDさんの愛の形はちがうだろう。対等で誠実で自由な愛はどれもが美しく祝福されてると私は思う。