兵本達吉氏 『日本共産党の戦後秘史』

96ページ
徳田の右腕と言われた伊藤律も、「人民艦隊」と言われた焼玉エンジンの小型漁船に乗り、船酔いで吐きながら、日本海を渡った。袴田が中国へ渡った正確な時期は分からないが、英国の豪華客船、クイーン・エリザベス号の三等船客に化け、中国人の事務長を50ドルで買収して、密航していった。紺野与次郎、西沢隆二、野坂参三も「人民艦隊」で、中国へ渡っていった。

102ページから

「軍事方針」と言われるものの内容に、当時の文献を元に少し詳しく立ち入って見てみよう。

◎「共産主義者と愛国社の新しい任務」(1950年10月12日『内外評論』など)
「国会というのは帝国主義の独裁を民主主義の偽装によって人民の目をゴマかすための金のかかった道具にすぎない。したがって、このような国会を通じて、人民が政権を握り得るという主張は空想である」と議会主義的平和革命論を一蹴し、「これら一切の権力機構は、ただ外部から破壊することによってのみ、初めて人民を政権につかせ得る」「権力闘争とは、究極において、武装闘争であることを世界史は証明しているのである。さればこそ、われわれ共産主義者は、わが国の労働者とすべての愛国者に対して、大胆に、率直に、はっきりいわねばならぬ時機がきたと確信する。すなわち、帝国主義の駆逐、日本の反動政府の打倒、人民政府の樹立は、・・・決死的な武装された人民の闘争なしには、実現できない」と述べて、暴力革命こそ共産主義者の選択すべき唯一の道だと説いた。

◎「日本共産党の当面の基本的方針」四全協(1951年2月23日)
この基本方針の第三項目が、「軍事方針」文書である。「現在、日本人民を支配しているのものは、米帝国主義とその手先たる日本の金融資本、地主、官僚反動勢力であって、人民の武装闘争が必要である」と断言し、「労働者階級は、米帝国主義者と売国奴に対して頑強・不屈の自衛闘争を行い、そのなかから遊撃隊と根拠地をもたなければならぬ」と説いている。

◎「戦術と組織の問題」第20回中央委員会(1951年8月)
第四項目で、「武力闘争と農民のパルチザン闘争」と題して、農民のパルチザン闘争の重要性を強調した。

◎「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」五全協(1951年10月)
これは、四全協の軍事方針、「51年綱領」をさらに具体化したもので、一般に「武装綱領」と呼ばれたものである。
綱領では、当面目指すべき革命を、社会主義革命でも人民民主主義革命でもなく、民族の独立を第一義とし、反封建の課題を結びつけた「民族解放民主革命」であると規定した。
・・・・
綱領は、中核自衛隊の組織、任務、指揮系統、行動要領、パルチザンの組織につき、次のように説いている。
第一項
問 「われわれは何故軍事組織が必要か」
答 「武装した権力とたたかっているからである。したがって平和的な方法だけでは、戦争に反対し、平和と自由と生活をまもるたたかいをおし進めることはできないし、占領制度を除くために、吉田政府を倒して、新しい国民の政府をつくることもできない。軍事組織は、この武装行動のための組織である」
第二項
問 「労働者や農民の軍事組織をつくるには、どうすればよいか」
答 「軍事組織の最も初歩的なまた基本的なものは、現在では中核自衛隊である。中核自衛隊は、工場や農村で国民が武器をとって自らを守り、敵を攻撃する一切の準備と行動を組織する戦闘的分子の軍事組織であり、日本における民兵である。したがって、中核自衛隊は、工場や農村で武装するための武器の制作や、獲得、あるいは保存や分配の責任を負い、また軍事技術を研究し、これを現在の条件にあわせ、闘争の発展のために運用する」

 

106ページ
◎「中核自衛隊の組織と戦術」
日本共産党が武装闘争のために作成した秘密偽装文書「球根栽培法」2月号(1952年1月23日付)に掲載されたものである。「この論文は、前に発表された『我々は武装の準備と行動を開始しなければならない』に続くものであり、これを基礎にしたものである」と前置きして、以下のような章立てとなっている。

・・・・

(二)「隊の組織と構成」
1.人を選ぶべきであって、「武器をとって戦う意志と決意と能力を持つ人」「勇敢でかつ軍事行動に耐える強い体を持つ人」をもって組織すること。
2.綱領、規約によって部隊の編成を明確にし、とくにそのなかにおいて、死を賭して戦うこと、及び秘密を守り、隊を裏切らないこと。
3.十名以内で一隊を組織すること。
4.隊に隊長と政治委員を置くこと。隊長は軍事委員会の指揮を受け、軍事行動について隊を指揮し、政治委員は大衆闘争との結合、大衆闘争の組織に関する方針を定めるものであって、隊長と政治委員は一体となって指揮・指導すること。
5.政治委員は党の指導部に参加し、党の方針を軍事行動に反映させること、隊員は通常の細胞活動から解除される。

武力革命は三段階に分けて遂行すべきとされた。第一段階では、軍事委員会の下に中核自衛隊を組織し、大衆闘争に武装行動の必要を認めさせつつ、これを革命闘争に引き上げていく。第二段階では、中核自衛隊の指導下に、広く大衆を抵抗自衛組織に組織していく。第三段階では、大衆闘争を国民的規模にまで拡大し、抵抗自衛組織を人民軍に盛り上げ、武力革命に突入する-という構想であった。

「回想・・・戦後主要左翼事件」(警察庁警備局)作成によると、「地方軍事委員会は、北海道、東北、関東、中部、西日本、九州の六ブロックに設けられ、中央軍事委員会の最高責任者には志田重男が任命された。しかし、志田に特別に軍事知識や経験があったわけではないので、大阪・箕面出身で陸士帰りの吉田四郎が、言ってみれば参謀役を演じている。武装闘争のキーパーソンの一人であった。

増山太助の著書『戦後期・左翼人士群像』は、「1951年10月時点で、全国で55の中核自衛隊ないし独立遊撃隊が存在し、その人員は2500人に達していたという。しかし、このなかには『文化工作隊』や『レッドパージ』された人たちの『行商隊』もふくまれているから、『地下に潜った』『Yメンバー』といわれる人たちの数は北海道・東北で各400人、関東350人、九州300人、近畿200人、東海、中国、四国、各百人、計2000人前後ではないか」と分析している。


109ページ
「中核自衛隊の組織と戦術」の第三項目は「武器と資金」について次のように述べている。
「中核自衛隊の主要な補給源は敵である。中核自衛隊はアメリカ占領軍をはじめ、敵の武装機関から武器を奪い取るべきである。」
「武器は敵の使用しているような近代的なものだけではない。大衆の持っている刀や、工作道具、農具も武器となりうるし、また竹槍や簡単に作ることのできる武器も使用できる。特に、敵を襲撃するために必要な輸送専用のパンク針、手榴弾、爆破装置の様な簡単なものは、ただちに製作する事が必要である。」
「武器についで資金を必要とする。この資金もアメリカ占領軍から奪い取ることが原則である。すでに横田や佐世保の基地等では、労働者がいろんなかたちで、真鍮、砲金などの敵の軍需品を破壊して持ち出し、売り払っている。」

・・・・

そのため交番を襲って巡査のピストルを奪ったり、米軍基地から真鍮や砲金などを持ち出して売り払う「事件」が各地で頻発し、「レッドパージ」された新聞社の文選工が自分のいた職場に潜り込んで大量の活字を持ち出し、これで「アカハタ」の後継紙を印刷したというような話が手柄話として流布されたりした。

また、長崎県の佐世保では基地から大量の軍需品を運び出して処分する「トラック隊」が組織され、これがヒントとなって「トラック部隊」、正式名称「特殊財政部」が創設された。この「トラック部隊」は軍事闘争時代の党の裏財政を担っていたと言われており、後に詳しく述べる。

この方針に基づいて起こされた事件は、派出所(交番)や警察官を襲って、拳銃を強奪六件▽警察署等襲撃96件▽米軍の基地・キャンプ、兵士、車両襲撃13件―である(いずれも、宮地健一作成資料から)。

 

 

1952年(昭和27)年2月に秘密裏に開かれた軍事委員会の全国会議の決定や結語が、偽装されたパンフとして配布された。続いて、いろんな偽装の表題をつけた技術的文書、例えば、有名な「球根栽培法」のほかに、「さくら貝」「栄養分析表」「新しいビタミン療法」「理化学辞典」などが発行された。それらには、火炎びん、時限爆弾、タイヤパンク器、速橪紙など、武装行動に必要とされる武器の製造法と保管の仕方を解説したものが含まれている。

このうち「栄養分析表」「新しいビタミン療法」は、1970年代に連続企業爆破事件を起こした極左暴力集団「東アジア反日武装戦線“狼”」が作った爆弾教本「腹腹時計」でも「参考にした」と紹介されている。

◎「球根栽培法」(1951年10月3日付)

ガリ版刷りで、本文21ページになっている。一見すると、家庭園芸書のような表題になっていて滑稽である。

内容、目次を示すと、「われわれに、何故軍事組織が必要か」「敵の武装勢力と対抗できる軍事組織をつくることができるか」「労働者や農民の軍事組織をつくるには、どうすればよいか」「われわれの軍事科学とは何か」「われわれは敵の武装勢力に対して内部工作をする必要はないか」「結論としてわれわれは直ちに軍事組織をつくって、行動を開始すべきか」。一口で言えば、暴力革命の「戦略・戦術の書」と言ってよいだろう。

◎「新しいビタミン療法」
ガリ版刷り、本文20ページ。これは「軍事路線学習シリーズ・No2」である。発行者が「栄養科学研究所」となっているのが滑稽であるが、内容はドイツ軍が第一次世界大戦で初めて使用した毒ガス・臭化キシロールの製法を述べていて、大変物騒な代物である。目次を見ると、
前書き
必要とする薬品・器具
操作法
取り扱い法
とあって、各種薬品の入手の仕方、取り扱いの注意事項が書かれている。

◎「栄養分析表」(1951年10月)
「新しいビタミン療法」のなかにある一部分である。筆者は厚生省衛生試験所とあるが、勿論偽名である。
内容は、時限爆弾、ラムネ弾、火炎びん(手榴弾)、タイヤパンク器、速橪紙(硝化紙、秘密文書などを一瞬にして焼却するための用紙)などの ①製造の目的、用途、威力 ②構造と製作法 ③使用法 ④材料の値段、材料が入手できない場合の代替品 ⑤その他の注意事項 - となっている。

◎「理化学辞典」
発行日、発行元は不明。催涙弾、火炎弾、黒色火薬、塩素酸加里爆薬、ピクリンサン爆薬、雷(雷酸水銀のこと。起爆剤として使われる)の製造法や製造過程での注意・留意点を述べている。


116ページ
立花隆 日本共産党の研究

新型火炎びんによる爆破実験について(1953年1月・福岡地検報告)
日共九州地方委員会では、民戦(註 在日朝鮮人によって組織された地下軍事組織、民族戦線のこと)の参加のもと、昭和28年1月11日、小倉市内の山中において当時製造された新型火炎瓶による爆破実験を行った。
同実験に参加した長崎在住の在日朝鮮人某によれば、
「11日午前十時ころ、小倉市魚町より定期自動車に、人目を避けるため、二班に分かれ約40分ほど走って下車し、相当高い山に登った。元陸軍小倉師団跡の裏山でその頂上と思われる地点で火炎瓶三本ほど実験したがその爆発力の大きさに驚いた。
樫の木で直径4メートルの円形の柵を作り、その中に穴をほって石煉瓦を並べ火炎瓶を投げつけた。爆音とともに石と瓶が柵に飛び散り、柵が倒れた。
実験を見ていた同志達は、これで我々も力強くなった。過去に於ける火炎瓶は威力なく、田川事件も威力のない火炎瓶を使用したため、税務署襲撃に犠牲者を多く出したわりに、効果がなかったが、これからこの火炎瓶を使用すれば、犠牲者少なく効果莫大であると欣喜雀躍していた」
地検のコメント この山は小倉市足立山と推定される。使用した火炎瓶の性能は不明であるが、ラムネ弾および火薬類と火炎瓶を組み合わせたような爆発物ではないかと考えられる。

武器の性能(京都地検報告)
日共京都府ビューロー中丹軍事委員会においては、昭和28年3月、テルミネット弾類似の武器を製作し、下部組織宛これの性能試験実施方を指示している。
爆発物の構成
イ 銀色の粉末 金属製マグネシューム、アルミ粉末、硝酸カリ、木炭粉末
ロ 赤色粉末
ハ 脱脂綿
二 糊
ホ 紙橪
へ 竹筒
製造及び試験要領
直径一寸、長さ七寸の竹(両端に節のあるもの)の一部を切り開き、三分の二位に、銀色、赤色の粉末を混合して詰め、紙で仕切り、三分の一はガソリンを浸した綿を挿入し、切り取った部分を糊付けする。節の一か所に小穴をあけ、紙橪をさしこむ。使用方法は紙橪に火をつけて投擲する。


朝鮮人の武器製造について(京都地検報告)
最近の軍事訓練と共に、左記の様な武器を製造しているので報告する。
イ 玩具ピストルの改造
玩具ピストルに空気銃弾の通る位のパイプを長さ10センチにして接着し、撃鉄の当たる部分に煙硝弾、次いで火薬を込め、次に弾(空気銃弾)散髪を装填する。
引鉄をひくことにより、第一弾が火薬と接触して点火の役目をなし、火薬の爆発によって弾丸を発射する装置である。構造は至極幼稚であるが、5メートルの距離から発射するとき、四分板にめり込むだけの性能を有している。


日共の武器製造に関する資料と軍事委員会技術部(武器係)の活動状況について(京都地検報告)

日共が軍事方針を遂行する必要な各種武器の製法とその取り扱いについて既に党中央から下部組織に対して、数次にわたり配布があり、党の企図している方向が看守されるが、このほど、(イ)新しいビタミン療法(ロ)栄養分析表を入手した。

これらの文書については前項で内容を紹介したので省略するが、各種の武器の試作がなされている様子が報告されている。

例えば、無音式簡易拳銃、簡易拳銃、特殊インキ、無線通信機の制作と使用について述べられている。

無線通信機について、触れておこう。

警察無線通信の盗聴をはじめ、各種情報の収集に超短波および超短波受信機を使用するために、A県V軍事委員会技術部は、超短波受信機の制作にかかり、使用技術を身につける。製作はN工業大学Zグループが担当する。市販の資材を使うと高額になるので、米軍の放出品や盗品を使用せよと指示している。

このほか、ビラ打ち上げ筒、落下傘を利用したビラ散布方法の研究を行っていたことも記載されている。


日共の火薬調査について(札幌地検報告)

日共北海道軍事委員会は、昭和28年6月14日夕張市内において、空知周辺炭鉱地帯の軍事担当者会議を開き、席上炭鉱地帯の火薬調査を指示したが、これに対し、夕張地区委員会では次のような報告書を提出した。

夕張鉱業所の場合、夕張神社付近に大量貯蔵の火薬庫があって事業に使用する全部が、この火薬庫より搬出搬入されている。

警戒の状況は周囲には鉄条網で囲み、これには電流が通っているもようである。
番人はつねに二人常駐し、警戒きわめて厳重である。
平和・大夕張とも、夕張鉱業所と同じ設備を以て、厳重な警戒防衛にあたっている。
真谷地・登川は警戒のみ。火薬を奪取した場合、これに必要な隠匿搬出を支持する党の支持層が皆無なため、長期にわたる計画が必要である。

現在、入手できるところは、新登川である。
数量 ダイナマイト 100くらい。
雷管 50
導火線 五掴みくらい

 

祖国防衛隊 (註、在日朝鮮人の共産党内地下軍事組織)北九州地区隊長会議決定事項について(福岡地検報告)

昭和28年7月31日夜八幡市内某方において北九州地区隊長会議を開催したが、決定事項は次の通り。

武器(主として拳銃)の早期収集について。

田舎の巡査駐在所の巡査に接近して、拳銃を奪取すること。方法としては、麻薬を使用して昏睡せしめ、その隙をねらう。殺傷すると問題が大きくなるので注意すること。

ホテル経営者で、われわれの戦列に加わっている者を利用し、駐留軍兵士の拳銃を購入せしめること。購入資金はその都度カンパし、もしくは県本部より資金の援助をおこなう。購入地としては小倉市に重点をおき、山口・佐世保市にも手をのばす。

北九州祖国防衛隊の編成について。

8月1日より、次の様な編成とする。
北九州地区で一個中隊

小倉 二ヶ小隊
八幡 二ヶ小隊
戸畑 一ヶ小隊
若松 一ヶ小隊
門司 一ヶ小隊
遠賀 一ヶ小隊
京筑 一ヶ小隊
合計 九ヶ小隊

 

121ページ
軍事訓練

戦闘を始めるには、演習が必要である。これを軍事訓練という。日本共産党が戦闘を始めるに当たって行った軍事訓練についても沢山の報告があり、以下に各都道府県の地検や県警がまとめたものを紹介する。

驚いたことに、どの報告書もみな、地元住民が警察に通報し、これが端緒になって、捜査が開始されているのである。
奥深い山のなかで、軍事訓練をやる。それを山林労働者が目撃して不審に思い、警察に通報する。警察官が駆けつける。
かつて毛沢東は彼の八路軍は、人民の海のなかで人民に守られている、と語ったことがある。ところが日本共産党の武装部隊を人民が発見するや、たちまち警察に通報していた。人民に守られているどころか、人民に包囲されていたのである。日本共産党の軍事闘争、武装闘争は、最初から敗北していた。
いくつかの軍事訓練の様子をみてみよう。


祖国防衛隊の軍事訓練実施について(京都地検報告)

祖国防衛隊京都府委員会では、昭和28年1月15日京都府下の祖防隊及び一部日共党員を交えて左記のとおり猟銃による射撃等の軍事訓練を実施している。

日時 一月十五日午前十時より午後四時迄
場所 京都府船井郡胡麻村字保野田アチラ山(海抜420米)
参加人員 京都市内及び山城地区祖国防衛隊隊員男子40名、女子9名
参集状況 京都市内方面よりの参加者は一月十五日午前七時京都駅発山陰911列車に乗り込み午前8時殿田駅にて下車し、案内役である元民愛青(註、民青の前身である民主愛国青年同盟)府委員長石桂栄の案内で五ヶ荘村朴○○(註、報告書は実名)方に集合、小憩ののち、二隊に分かれ、胡麻村保野田巡査駐在所前を西へアチラ山に登った。
訓練の状況 目撃者 木村字殿田、井尻奈良蔵(本名)の話によれば、二隊に分かれた隊員は、指導者の号令により、解散・集合・登攀、射撃訓練を行った。号令はいずれも日本語で、「集まれ」「散れ」等の言葉を使用していた。アチラ山中腹にある松の木に北鮮旗をかざし、士気を鼓舞し、猟銃十発ぐらいを発射した。
訓練批評会 午後三時より山麓曹源寺において、地元朝鮮人も参加して訓練の批判会を開催した。(内容不詳)
散会の模様 参加者等は午後八時五十五分殿田発915列車で京都に出発の予定のところ、降雪のため約二時間遅れた。石桂栄は代理助役植原勝蔵に対し、ガソリン・カーの特別運転を強要したが、結局いれられず、約二時間遅れて、殿田を発車し、京都に帰った。
現場検証の状況 アチラ山の一帯を検証するに、山麓より山頂までの間の雑草、山肌は相当踏みにじられ、タバコ「光」の空き箱、血液付着の紙片及び12番薬莢3個が発見された。

 

祖国防衛隊幹部に対する軍事講習実施について(京都地検報告)

西日本祖防委においては、昭和28年3月20日より25日間にわたり、幹部に対する軍事講習を実施したがその状況は左記の通りである。

本教養の目的

本教養は日共第22回中総の決定に基づく幹部教養の一環として、将来の各府県の祖防隊長候補養成の目的で代表的地区祖防委員長を集めて実施した。

期間 三月二十日から四月十三日までおこなった。
場所 大淀区豊崎会館
受講者 岩田(山口県代表)鄭客章 大山(滋賀県代表) 崔圭司 そのほか 各県代表 計15名
編成
受講中の役割
講師
教養日割り 22中総決定書討論・同軍事方針・矛盾論研究・朝鮮歴史・社会主義の経済的諸問題研究・民族綱領研究・拳銃操作と火炎ビン制作方法)

日共細胞の軍事訓練実施の状況について(福島地検報告)
日共福島県飯豊細胞においては、昭和28年5月15日左記の通り破壊弾及びラムネ弾の製法・使用等の軍事訓練を実施している

実施時期 五月十五日、午前9時より午後5時。
場所 田村郡飯豊村大字飯豊字入山地内山林
参加党人員 県Y 氏名 不詳 地区Y 日本名 実名 飯豊細胞Y 日本名(七名)実名 夏井細胞Y 日本名
実施状況 午前9時全員○○宅(実名記録)に集合。県Y並びに地区Yから、破壊弾 ラムネ弾の製法、使用、効力の学科訓練を午後4時10分まで受けた。この間、実地に破壊弾 五本 ラムネ弾 三本 を製造した。午後4時10分から5時まで○○宅前山林で破壊弾を持ち出し野外訓練を行った。
弾薬の製法

 

民戦青年行動隊の軍事訓練について(青森地検報告)(略)

日共川上委員会の軍事訓練等について(旭川地検報告)(略)


日共党員等による軍事訓練実施について(甲府地検報告)(略)

昭和28年8月20日、富士山麓山中湖畔より御殿場寄りの演習地内において、拳銃及び火炎瓶による日共党員等約50名の軍事訓練が実施されたが、その状況は左記の通りである。

126ページ

8月12日国警東京本部より国警山梨県本部に対して「全学連及び中共引揚者18名が拳銃を携行し、山中湖畔付近発電所を襲撃するとの想定の下にキャンプ、ハイキングを偽装した軍事訓練が現在行われている」旨の情報があり、これと前後して、関東公安調査局より山梨地方公安調査局に対し、同様の情報が寄せられた。


8月8日全学連(党員のみで他の参加は許されない)60名ないし70名参加の下に軍事訓練が行われた。服装は農民風に返送して背負子を背負い鍬鎌等をもって畑にいくような支度であった。精進停留所(上九一色村精進山麓バス)で下車、同所から案内人に伴われ徒歩で富士山寄りを約30分歩いた。松林(精進湖と西湖との中間)において訓練が行われた。訓練は、十四年型ブローニング二号及びモーゼル一号による拳銃発射実弾訓練で午前・午後の二回約一時間行われた。参加人員を十名一組の班に編成して各班毎に分散して訓練されたが指導者の名も参加者の名もその住所も知らされなかった。

日時 8月20日午前8時~午後3時

場所 山中湖畔旭ヶ丘山麓バス停留所から御殿場寄り徒歩約一時間演習地付近
参加者 参加人員約50名(内女3名)
服装 リュックサックに杖等をもち、キャンパー姿の軽装
指導者 山梨県委員神田某
集合状況 参加者は、前記のような服装で、旭ヶ丘停留所に、三三五五集合し、十五名ずつの班に編成され、約十分歩き演習地付近とおもわれる地点で訓練が行われた。参加者の半数は県内弁で、他は標準語を用いていた。
軍事訓練の内容 発電所及び軍需工場襲撃の想定の下、発電所にはそれぞれ特徴があるが、概ねタービンにダイナマイトを仕掛けることが最も有効である。山梨県内の発電所の位置及びその特徴については、次回説明するとされた。次いで、武器火炎瓶操作の訓練が実施された。武器としては、拳銃モーゼル ブローニング ソ連製らしきものにより、実弾を発射して行われた。

 


曙事件(甲府地検報告)

これは、1952(昭和27)年7月30日夜、山梨県南巨摩郡曙村で、日本共産党の十名の山村工作隊員が、山林地主佐野喜盛宅へ「佐野喜盛を人民裁判にかけ、財産を村民に分配する」と称して、竹槍、こん棒をもって押し入り、就寝中の佐野及び妻、女中、さらには小学生三人をも竹槍で突き刺し、こん棒で殴打し、あるいは荒縄で縛り上げ、頭から冷や水を浴びせるなど、暴虐の限りをつき壊したうえ、現金四千八百六十円と籾一俵を強奪した事件である。

話はそれるが、中国革命では、地主が革命党から襲撃され、当主は勿論、妻や子供、老人まで家族全員が共産党に惨殺されるというケースが、推定で数十万あったとされている。中国には革命前500万から600万の地主がいたが、革命後殆ど(肉体的に)絶滅させられてしまった。これが毛沢東の革命である。
現在も、数百万の人たちが強制収容所に収容されている。


横川元代議士襲撃事件

1952(昭和27)年8月7日午後9時20分頃、日本共産党埼玉県西部独立遊撃隊と武蔵野独立遊撃隊の十三人が、党資金を獲得するため、埼玉県比企郡大河村腰越居住の武蔵野銀行取締役、元商工政務次官で元代議士の横川重次(当時57歳)宅を襲った。襲撃団は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、横川に対して

世直し状

一金百万円貰いたい。
若し頂けない場合は貴殿の命貰いたい

      世直し状
横川 殿

と墨書した脅迫状を突きつけて、目潰しを喰わせ、日本刀、短刀、登山用ナイフ等で同人の首、肩、腹、腰などを切りつけたり突いたりして瀕死の重傷を追わせた。さらに家中を逃げ回る同人を捕らえようと追い回した。さらに別の一団が同家裏側の座敷に侵入し、その場にあった籐のステッキで女中を殴り、また、別の女中や次男を麻縄で縛り上げて猿ぐつわをかまし、目隠しをするなど暴行を行い、屋内を物色したが、大型金庫が開かなかったため目的を達せず逃走した。

この襲撃隊員には東大消費組合グループのメンバーが数名含まれており、東大を捜査したところ、東大消費組合から被疑者が横川事件に参加した経緯を書いた手記や軍事方針を書いた文書が見つかって、「日共の軍事方針」であることが裏付けられた。

また、武蔵野独立遊撃隊の政治委員某は「横川は元代議士で、広大な山林を所有している封建地主であり、人民の敵であるから殺して金を奪いその金は日共の活動資金にする」予定であったと自供している。

 

トラック部隊

1950(昭和25)年のレッドパージによって、膨大な数にのぼる職場党員が根こそぎ追放された日本共産党は、党の組織と財政に致命的な大打撃を受けた。加えて同年6月6日には、GHQの指令により日本共産党の中央委員24名が公職から追放された。

このような背景のもとに日本共産党は表裏に分かれた二重組織となり、指導部は地下に潜った(非公然化)。そして、徳田球一、野坂参三、志田重男、西沢隆二らが地下組織の責任者となり、元文化部長大村英之助を隊長とする資金収奪を目的とする「トラック部隊」を創設したのである。

「トラック部隊事件」は、日本共産党の特殊財政部と称するグループが、企業を拠点として、中小企業を相手に資金を強奪し、党組織の維持温存をはかるために行われたものである。企業グループ常任指導機関(中央、関西、北海道に特殊財政部指導機関)をつくり、組織的、計画的に実施され、詐欺、横領、特別背任、外為法違反など多種多様な不法手段により、企業の乗っ取り、計画的倒産などを行ったもので、1951(昭和26)年以降数億円(勿論当時の時価で)を収奪し、党活動資金として上納流用した極めて知能犯的で悪辣な事件であった。

このうち、警視庁公安部で処理したものは、犯罪件数309件、検挙人員25人、被害総額3億9937万円で、証拠品7千点、取り調べを受けた者2091人に及んだ。

さらに、この事件の捜査過程で、元駐日ソ連代表部員のラストボロフが大村英之助の手を通じて、日本共産党に対して巨額の資金援助をしていたことも明らかになった。

「トラック部隊」について、少し具体的に述べてみよう。
「トラック部隊」の中心人物は地下ビュウロー最高責任者志田重男であり、隊長の大村英之助は直接活動の指揮に当たっていたもので、全国的にたくさん企業グループがあった。

一例だが、東京には「ビッグフォー」といわれる四人の企業経営者がいた。太陽鋼管社長大江直一、羽賀産業社長N、睦産業社長Y、久保商店社長Kである。さらにこれを取り巻く系列企業が無数にあった。その手口は会社を乗っ取り、計画倒産を行ったのち、再建を理由に整理し、それを銀行、大メーカーにしわよせするというやり方であった。

太陽鋼管は本社を東京・中央区に置き、最初は支払い面で信用させた上で、尼崎精鋼所から大量の鋼材を引き入れ、これを系列会社である並木鋼材、帝国金属ほか数社を通じて、元値をきって叩き売り、現金に替え、その一部を上納するという方法で、数億円の取り込み詐欺をはかったのである。そのため、尼崎精鋼は、労働争議もからんで倒産してしまった。


133ページ

宮地の研究資料によると、1952(昭和27)年から1953(昭和28)年にかけ、北は北海道から南は九州の鹿児島まで全国(当時沖縄は米軍の占領下にあった)で、日本共産党による交番襲撃は96件にも及んでいた。

日本共産党の武装勢力はなぜ、都市や地方で交番や駐在所を攻撃したのであろうか。

当時の日本共産党の文献を読むと、「地方権力の打倒」とか、「地方権力の樹立」という言葉が頻繁に出てくる。恐らく村の駐在所は、地方の権力の出先か、地方権力の象徴と見なされたのではないか。

 


伊藤巡査殺害事件(1951年12月)

東京都練馬区旭町の駐在所に勤務していた伊藤勝郎巡査は、管轄内の製紙会社の労働組合が第一組合と第二組合に分裂した時、たまたま共産党系の第一組合員を逮捕したことから日本共産党に深く恨まれた。そして、「会社の近くで人が倒れている」とおびき出されて殺害された上、拳銃を奪われた。かねてから、共産党系の労組員が、「伊藤に引導を渡せ」「伊藤ポリ公、我々の力を覚えておけ」などといったビラを大量に張りつけ、駐在所に対する抗議行動を連日繰り返していたので、警視庁は、「誘い出しによる計画的殺人事件」と直ちに断定。捜査の結果、日本共産党北部地区委員会・軍事委員会の指揮による犯行であることを突き止め、十四人の党員らを強盗致死罪で検挙した。

これが戦後第一号の警察官殺害事件であり、「軍事方針」に基づく日本共産党の「軍事闘争」第一号だと思われる。

 

白鳥事件(1952年1月)

札幌警察署警備課長の白鳥一雄警部が、札幌市内での勤務を終えて自転車で帰宅の途中、市内南六条西十七丁目路上で、背後から何者かによって拳銃で狙撃され、即死する事件が起こった。

この事件は、日本共産党札幌地区委員会が、地区での党活動の取り締まりの急先鋒であった白鳥警備課長を、権力機関との対決の対象として選び、殺害を計画し、実行したものである。

事件の数日前、札幌市内で、「ああ、血も涙もない、高田市長、白鳥課長、塩谷検事らを札幌から葬れ」というビラがまかれ、これらの人たちの官舎には、石が投げつけられた。事件発生の二日後には、「見よ天誅遂に下る、自由の凶敵、白鳥市警課長の醜い末路こそ全ファシスト官憲どもの落ちゆく運命である。日本共産党札幌委員会」という、いわゆる「天誅ビラ」が市内で配られた。