間もなく関東も桜の季節、
庭の姫リンゴの盆栽の花も膨らんで参りました。
春の陽気に誘われて、歴史実話の短編を考えました。
お笑い下さい。
題して
『おおおち(大御乳)さまと信長さま』デス。
目次
1、~4
の順に御読み下さい。
1.おおおち(大御乳)さまとは
2.吉法師さまのお乳(おち)になる
3.乳兄弟(ちきょうだい)、吉法師と勝三郎
4.乳兄弟(ちきょうだい)その後
1.おおおち(大御乳)さまとは
むかし昔、戦国時代と呼ばれた時代のことです。
私は(みの↓)、乳が大変大きく、織田信長さまの幼少、吉法師さまと呼ばれた時,大変気にいられました。人呼んで『大御乳(おおおち)さま)』と呼ばれ、信長さま、秀吉さま、家康さま及び、御家来衆にも大変尊ばれていたのでございます。
現在は姫路城主である、孫の池田輝政の配慮により、
高野山のお山に眠っています。
大御乳(おおおち)さまは、92歳という長命でした。
通称養德院で、周りには大名,小名,そうそうたるお名前の方々が、
眠っています。
さて私の名まえは、前述のような、又大層な院号でしたが、
親の付けていただいた名前があったが、記録がないようです。
ここでは、これからは,自称、私の生まれ故郷美濃からとって、
『みの』と呼ばせていただきます。
申しおくれましたが、この時代普通の乳母を呼ぶ時は『乳母』、
または『ば』と呼び、高貴な方の呼び方は、『おち』(お乳)と呼ばれました。
大御乳(おおおち)さま
養德院
養德院木像 岡山市国清寺所蔵
(現物の木像はネットでご覧ください )
2.吉法師さまのお乳(おち)になる
吉法師さまは、気性が激しく,疳の虫が強く、
お乳(おち)の乳頭を次から次へと、食いちぎって、困り果てていた。
歯がないのに、食いちぎったというのも可笑しなことです。
然し、そのくらい言い伝えられていたのです。
勝三郎の母親だけは、食いちぎらなかった。
織田家の宿老から、『みの』は,吉法師さまの、
お乳(おち)になるように言われたのです。
幸い吉法師さまは、わたくし『みの』のお乳が、
たいそう気に入ったのです。
それというのも、わたくしのお乳は大層大きく、
夫池田恒利の子供、幼名勝三郎を育てていました。
息子勝(しょう)ちゃんに上げるだけでは、お乳が出すぎて,
みのも困っていた。他の赤ちゃんにあげたり…。
かくして、みのは吉法師さまの『お乳』になった。
吉法師さまと、勝三郎は二つの乳房を仲良く別々に飲んでくれました
吉法師さまと勝三郎は、お乳のお陰ですくすく育ち、
やがて大将織田信長、池田家の基礎を作った池田常興として成していったのです。
乳兄弟(ちきょうだい)たちは、仲が良かった。
やがて、勝幡(しょばた)城から名古屋城へと移りました。
注
池田恒興
『池田家履歴略記』によると、池田常興、
幼名は勝三郎(しょうざぶろう)です。
輝公、初めは恒興、剃髪して勝入、護国院
つづく