ハミングバード達が忙しく飛び回ってフィーダーに集ってます。
朝から我が家は畑づくり。
おとーちゃんがAに頼んで来年に向けて新しい畑を作ってくれてます。
今年作った畑は囲いが無くて、モグラや他の動物に食べられたり、アイビーの根が邪魔していた為に深く根づかなかったので、庭の斜面下にあるスペースを利用する事にしました。
それでも色んな動物が来るだろうけど、かなり広くてしっかりした畑になりそうだから、私も来年の百姓暮らしの為に今からまた勉強です(汗)。
いつもと違う場所からわが家を眺めると、改めて、暮らしを愛する生き方を教えられます。
私は無宗教で師はいつも人ではなく、自然だと信じて来ました。
勿論、人から学ぶ事も沢山あるけれど、人の道は自然と繋がってこその命。
今日はその考えを更に深めてくださった方のお話です。
私がワークホリックが元で心療内科に入院した時、ある詩が私に大きな衝撃を齎しました。

今日は死ぬのにもってこいの日!?
当時の私は何度も死のうと試みて、オーバードーズをしたり、過食嘔吐を繰り返していましたから、この”死”に対するポジティブな考えに何だかとっても腹立たしさを覚えました。
と同時に、何故?こんなに死を怖がらないのか?知りたくて知りたくてたまらなかった。
たまたま両親が地方局で放映された地元のドキュメンタリー番組で『母なる大地を愛した男』という番組(多分、これであってると思うけど定かではないそうです汗)を観ていて、その人がネイティブアメリカンの考えを自分の生き方や会社に反映させているとの話を聞いて、一も二もなく、探して電話連絡をしました。
この時の私は本当に必死だった。
自分の病気をどうにか克服したくて、すがる想いでこのトンデンファーム(今や全国区で有名なハムやソーゼージなどの食肉加工会社)の代表の松山氏に会いました。
忙しい日曜日の午後、賑わう牧場レストラン”ホピの丘”で、松山氏は熊のような笑顔で私を迎えてくれました。
一体、何をどんな風に話したのか?さっぱり思い出せないのだけど、ただただ急き立てるように話す私の言葉に松山氏は目を細めて、時折、眼光を鋭くさせながら深く深く頷いていました。
それから数年間、私は毎年スウェットに参加させて貰いに一人、或は家族や友人らと共に松山氏の土地に訪れ、自らリバース(re-barth or re-born)をしに行くのが定例になっていました。
スウェットロッジとは?
ネイティブアメリカンが長旅や重要な事を考える際、或は内省する為に行う儀式で、イニピー(母なる大地の子宮)と呼ばれる柳を編んだドーム型のスペースの中に、人数分以上の焼けた石を中心に置き、光が入らないように毛布や布などでカバーし、真っ暗なスチームサウナの状態にします。そこへ「オーミタクヤーセ!(All my relations)」と言って入り石を囲んで座ります。生理中の女性は入る事が出来ません。男性はショートパンツとTシャツ、女性は長いスカートか布を巻いて入ります。入れていけないものは負の感情。恨み、辛み、憎しみ、怒りなどの感情をその中に入れてはいけない。それ以外のものはどんなものでもオッケー!(美人になりますように、頭がよくなりますように、もオッケーです)要はこの中で祈りながらどんどん聖なる水を焼けた石にかけて熱い中ひたすら祈る(順番に)。ドーム状なので上部がかなり高温になる為、みんな地べたにひれ伏す感じで低くなって耐える。ちなみに今までスウェットロッジで死んだ人はいなかったのに、数年前に残念な事に亡くなった人がいるそうです。それは昨今のインディアンブームでこの儀式を勝手にお金目当てのツアーに仕組んだ会社が行ったせいで、ちゃんとしたケアもリスペクトもされていなかったのが原因。常に儀式を取り仕切るリーダーは中の人が具合が悪ければ外に出られるようにしている(現に私の友人も苦しくて一度早めに出た)のだが、この時はそれをしていなかったのだと思う。とにかく、想像を絶する熱さなのだが、不思議な事に自分が怖れると熱さは更に熱く感じたりするし、怖れを捨てるとふっと違う空気を感じる。母なる大地の子宮イニピーの中に自ら入り直し、そして熱さの中で祈りを捧げて、再び自ら生まれ直す作業、それがスウェットロッジです。多くの大人たちが号泣します。
こうした中、死ぬ事は決して恐ろしい事ではなく、この世ですべき事をし終わったら皆元の場所に戻っていくだけの事だという観念へと変化しました。
大切な事はいつも七代先の事を考えて決める
その考えで自分の土地を大手リゾート会社に売り渡す事をしなかった松山氏。
これはネイティブアメリカンの暮らしに深く根付いている考え方で、他の多くの先住民族(モンゴルの遊牧民やイヌイット、アフリカのサバンナで暮らす人々やアイヌなど)の生き方に一環して通じる考え方。つまり自然と人はいつも繋がってるというのが原点です。
もしもこれが目先のお金の為に売り払っていたなら彼は一時的には裕福な暮らしを手に入れていたでしょう。しかしそれは自分の魂を売り渡すのと同じだと考えました。
私の知る限り、その後大手リゾート会社は違う土地を購入して大きな施設を建設しましたが経営もあまりパッとしないようです。一方、松山氏の会社の製品は北海道から全国区へと知れ渡るようにもなり、百貨店などのご贈答品としていつも並ぶようになりました。
しかも本場ドイツで金賞受賞したんですよ~~
私はこちらの骨付きウィンナーと行者ニンニク入りのピリカウィンナーが超おススメ☆
http://www.tonden.com/
彼が守ったその土地にはわき水が流れ、馬が放牧され、みんなで入れる大きな五右衛門風呂があり、毎年9月の会社の感謝祭には、従業員とその家族、そして交流のある多くの人々がまるで一つの大きな家族のように広大な緑の絨毯の上で寝転びながら過ごします。
そしてアメリカからネイティブアメリカンの人々がスウェットロッジをしてくれ、私も前の晩からみんなでティピに泊まって参加させて貰っていました。
また、
人にはパン(暮らし)と聖書(心)の両方の仕事が必要
と話してくれました。
(※ここでのパンと聖書はあくまで喩えで彼はキリスト教ではありません)
松山氏は決して多くを語る弁舌家ではなく、黙々と朝早くから薪を集めて、火を熾し、ビッグベアのような豪快さと優しさを持った人でした。それは訪れる会社の従業員たちやその家族との会話の中によく見て取れます。
私はこの松山氏にお会いしたのをきっかけに、人生の不思議やしくみに興味を持ち始めました。
そして今も尚、何故ここに自分がいるのか?どうやって死ぬにはもって来いの日を迎えられるか?を日々右往左往して暮らしてます。
しかもまだまだ業が強いので、先々の事まで考えて決断する能力に欠落してますが、出来るだけ人にも、人を取り巻く自然にもいい事を考慮して物事を決めたい。
私たちが生きてる今の世の中は多くの人々が成功してお金持ちになりたいと願います。
決してそれは悪い事でもなければ、普通に願う幸せの一つでしょう。
ただ、その前にこれからは、人間社会だけの事を考えて生きていく生き方はとうに遅れている生き方だという事を知る必要があります。
あるインディアンの酋長が言いました。
白人たちが我々の世界を尖ったもので壊した。
私たちの世界はいつも丸い。
話し合いをする時はみんなの顔が見えるように、聞こえるように円陣に座った。
私たちのティピも円に作られた。
全ての始まりは円だった。
しかし、白人たちは角張ったものを好み、壊していった。
とってもとっても稚拙な事かもしれませんが、
どうして私たちは競争しなければいけないのか?
どうして私たちは勝たなければいけないのか?
考えてみた事がありますか?
今度は違う質問。
皆さんは競争するのが好きですか?
自分のお子さん達、或はご家族にも同じように、それ以上に競争させたいですか?
競争という言葉は丸いですか?それとも尖ってますか?
私には到底丸くは感じられない言葉です。
現に私は競争し、勝とうとし、そうする事が当たり前と思って生きて来て、一番たいせつにしてあげたい自分自身の心にも身体にも長い間鞭打っていました。
そしてその当時の私の周囲にはいつもお金のトラブルと胡散臭い儲け話ばかり(当時の同棲相手はサラ金会社&不動産会社経営者)。私自身、彼の会社も手伝ったり、取り立てに行った事もあって、一家離散する場面を見る事も少なく在りませんでした。
これ以上書いていくと違う内容の話に逸れてしまうので止めとくけど(極道ネタはたいがいにせんとね。。。)とにかく、この頃の私は鼻の骨を折られるなどの、出血大サービスな時代でした(若さ故。。。爆)
ベンツにロレックスにセカンドハウスは海が見える一軒家。
当時の私は華やいでいるような生活であっても内情は人生で一番どん底にいたわけです。
きっとお金持ちでも公私ともに幸せな人たちもいっぱいいるだろうけれど、私はそこに幸せを微塵も感じ取る事が出来なかったわけです。何故か?それは尖っていたせいです、全てが。
最初に書いていた畑づくりのように、ちゃんとしたいい土壌を作ってあげていなかったのですね、私自身も。誰かと闘ったり、競う事をせずに、ただ自分の無垢な楽しみや喜びに忠実になる事が出来たら人はどれだけ幸せになれるでしょう。そして、ただ生きている今こそが奇跡とさえ感じられるでしょう。
時折、知らない間に私たちはいろんな場面で、いろんな人たちや世間というまことしやかで一番胡散臭い輩に教え込まされたり、”当たり前”というありもしない定義を押し付けられて生きているのかもしれません。
ホントに映画のマトリックスのように、社会はいろんな思惑に牛耳られていますからね。
もしも不自然な自分を感じたら自然に会いに行けばいいんです。
そして自分の内なる声に耳を傾けてみてください。
自分の向かう道の先は円のイメージか?それとも尖ったイメージか?
時代の流れに身を置き、何だか取り残されそうな面持ちになっても、自然はいつも誰よりも完璧に答えをくれるます。人に疲れたら、人の道にしんどくなったら、人ではない命に答えを伺って見るのもいいものです。
花に水 人に愛 そして全て円
そこに愛がなければ、円(縁)が無ければ進まなくてもいい
小さな鳥達にまた教わった日でした。






