久しぶりの日記 | 生きる苦しみと希望の記録

生きる苦しみと希望の記録

日々思ったことを書いています。生きる意味について書いたものが多いかも。

かなり久しぶりだが、日記を書いてみようと思う。

公開記録を付けるのはほんとうに久しぶりで、前回がたしか去年の年末ぐらいだったと思うので、もう2か月近く書いていなかった。

その間も考えること、感じることなどはいろいろあり、むしろこれまでにも増していろいろなことを考えていたような気もする。

 

しかし、それを外部に向けて発信しようという気持ちには基本的にはならなかった。

それは以前から書いている通り、ざっくり言うと、自分の心理的な意味での「誰かに話を聞いてもらいたい欲求」は、主には彼女(今となっては妻だが)、そしてデイケアの理解のある友人などに話すことで満たされており、逆に僕の考えたことはブログで外部に発信した場合には基本的に否定的な目にさらされることが経験上わかっているからである。

 

この点に関しては、なぜそうなるかに関しても、その後新たに考えたことなどはあり、それは今回のブログのどこかに盛り込みたいとも思っている。

だがさしあたり、今回、そんな状況をおしてでも公開で日記を書こうと思ったのは、単に「ヒマだから」だという面が大きい。

というのは、僕は近ごろは基本的に仕事後は家でパートナーと過ごしているし、毎週指定休をもらっている水曜はデイケアでフットサルをしたり人としゃべったりしていて、そっちが生活上の優先事項なので、ブログを書くには至らないのだが、あいにく今日は祝日で、僕は仕事が休み、パートナーは出勤で、デイケアもやっていない。

それで、パートナーの出勤に合わせて一緒に歩いてきて、別れてから近くのカフェに入って、久しぶりにブログでも書こうかと思ったのである。

 

いっぽうで、実際には近ごろもいろいろなことを考えたので、それを発信するか、もしくは少なくとも文章の形にする機会もほしいと言えばほしかった。

ブログに書くとそれはそれで批判にさらされかねないので微妙なのだが、とりあえず今日は時間があるのにまかせて近ごろ思ったことを書いてみたいと思う。

 

 

まずはこれまでの日記と同じように、近況から書きたい。

1月は、仕事やフットサルなど日常のことをこなすかたわらで、結婚に伴う親族を集めた食事会の準備をしていた。

パートナーと話した結果、自分たちは結婚式という正式な形の式はせず、親族20人ぐらいを集めて、フレンチレストランで食事会をやろうということにしたのだが、それだと場所の確保や準備、当日の司会進行もすべて自分たちのセルフプロデュースということになるので、そのための準備に明け暮れていたのである。

結局その会は2月の中旬にやったのだが、予想以上の成功を収めたと思う。みんな楽しそうで、喜んで僕たちの結婚を祝ってくれた。

内容としては、基本的には結婚式の形式に倣うことにした。僕がはじめのあいさつをしてから、来てくれた人を一人ずつ簡単に紹介し、それからケーキカット、新婦の父に乾杯の音頭を取ってもらい、食事の合間には自分たちで考えたクイズゲームを、正解者へのプレゼント付きで用意した。最後に新婦からの両親への手紙朗読、それからプレゼントや花束をみんなにそれぞれ渡して、最後に新郎の父があいさつをし、僕があいさつをして流れ解散という形である。

事前にやった主なことはプレゼントの買い出しで、2人で家族の一人ひとりについていろいろ考えたうえで選んだ。あとは会場の検討に始まり、会場で流す音楽をCDで用意したり、フランス料理店の人と連絡を取って席の配置や当日の進行や支払いの方法などを話したり、クイズの問題を考えたり、Canvaというチラシなどを作るアプリで画像の招待状を作り事前に最初の飲み物を集計したりといったことをした。

 

その準備の過程でもパートナーと一緒にいろいろなことを乗り越え、絆は深まったと思う。特に心に残っているのは、会の直前に、僕があいさつがちゃんとできるか不安になって、紙にまとめたものをある程度覚えるべきか悩んでいると、彼女が、みんなにとっての僕の魅力は、そういうところでうまく立ち回れるところじゃないというようなことを言ってくれ、僕もこの会の本質はあいさつがうまくできるかにはないと思ったので、もっと大事なことを意識すると同時にあいさつの準備をやめたことである。これも最終的にかなりよい方向にはたらいたと思う。

 

途中でやったイベントの三択クイズの最後の問題が「自分たちのデュエットの十八番がスピッツの空も飛べるはずだ」という内容のものだったのだが、そうしたら流れでその場でアカペラで歌うことになり、まったく準備していなかったのにハモりが今までで一番レベルにうまくいったのもうれしかった。

 

しかしこうやって書いていてまざまざと思うのだが、よかったことの報告をしているのに、ブログに書いているとどこか嫌な気分になる。

というか、基本的に、なにを書いても批判が想定されるというか、少なくとも僕自身は、ブログの読者として、僕に否定的な視線を向けてくる人を基本的には常に想定しながら書いているということは言えるだろう。

実際にそうかというと、少なくともコメントとして表面化するものだけに限って言えば、基本的にそれは正しいと僕は思っている。

実際には、近ごろはいろいろなことに対する洞察力は上がっているように思っているが、「まだ接していない人の自分に対する見方」に関しては、たまに予想に反することが起こる。それも、どちらかというと、近ごろも「思っていたよりよく接してくれた」という経験をパートナーと話すこともあった。僕たちは、どちらかというと二人とも、人の自分に対する評価に関しては、実際よりも低く見積もりがちなところはあるとは思う。

それ自体は意識しておいたほうがいいかもしれない。

 

というか、そもそも仲がよく、僕の幸せ話を聞いて辛い思いを抱えるだろうとも予想される人に対しては、僕自身は積極的に幸せ話をすることはない。

その意味で、こういった個人的な内容は、不特定多数に対して語るには、そもそも内容がデリケートかつ反応が多様になることが予想される以上、そもそも、ある意味では、発信に適さない内容と言えるのかもしれない。

 

実際には、パートナーとの関係は基本的には非常にうまくいっているので、書こうと思っていたエピソードもまだあるのだが、とりあえずそれはやめて、ほかの近況をできるだけざっくり書いてから、もう少し抽象的な内容に早めに移りたい。

 

近況の続きとして、闘病の側面に関してだが、精神科の薬はもうやめてからかなり時間が経つが、まったく問題ない。10年ぐらい僕の診断は統合失調症で、途中自殺企図を繰り返していた時期などは何年も1日20錠以上の薬を効果をまったく実感しないまま飲み続けていたが、こうなってくるとそもそも僕が統合失調症なのかどうかも怪しいところである。

 

先日、1か月ぶりぐらいの診察で、その点などを主治医に尋ねてみた。僕が、「『生きる意味』の悩みも妄想と言われたときもありましたが、僕は今でも、この問題は、僕が当時言っていたところの『生きる意味』がないと解決しようのない問題だと思っています」と言うと、主治医は、「それは妄想ではないんでしょうね」と言った。

そしてざっくり言うと、どちらかというと僕は発達障害だということになった。それはまず、「論理的一貫性が崩れることへの過敏性」という僕の特徴は、発達障害的な特性に近いことが第一の理由だと思われる。

たしかにそうだろう。僕は僕の感情が揺れがちな場面として、例えば人が自分の思う通りに動いてくれなかった場合でも、それが相手の一般的な能力不足や失敗だった場合には、むしろ人よりも寛容な傾向があると思うが、逆に、自分の言っていることが誤解されたり、相手が僕の言っている内容の理解が浅いままに的外れなことを言ってきたりとか、相手が心理的に、防衛機制などによって自分をごまかしたうえで、その結果を僕に押し付けてきているように思われるときなど、一般に相手が「不誠実」であったり、「自己洞察が足りない」という意味での能力不足で、それゆえに言動と行動が一貫性を欠いていた場合などの状況に対しては、人よりも過敏である傾向がある。

これ自体は、どちらかというと発達障害的な特徴である。

 

その解釈からいくと、僕のこれまでの困難は、妄想によるものではなく、実際に存在する問題に対してではあるが、そのうちの一部(生きる意味の問題)に、発達障害から来る特性によって過剰に注意が集中しすぎて、しかもその問題に対して論理的に一貫した事実としての解決を求めすぎた結果、またそういった姿勢を他者に対しても持ち過ぎた結果、社会生活上の失調をきたしたり、社会的に見て「普通の」進路選択や職業上の選択ができずに困難や障害を抱えた、ということになるだろう。

それはそれで、僕自身から見ても、一つ解釈としては割と妥当なものだと思う。

 

だがもし僕がそもそも統合失調症ではなかった場合、今後の診断はどうなるだろうか、というのが、近ごろ心配なところだった。

というのは、僕は現在精神障害者福祉手帳の2級に該当しており、障害年金も受給しているのだが、もし僕が「統合失調症ではない」と判断されて、それらの更新申請の診断書の内容が変わった場合、例えばもし手帳がなくなれば、僕は今障害者雇用なので、今の職場にはいられない。また、障害年金をストップされても、経済的に見て今の給与では生活上困難が生まれるだろう。

また、そもそも僕は現在のデイケアで人間関係をけっこう築いているので、仮に今病人役割そのものから解放され、医療保険や自立支援医療をはじめとする障害者自立支援法の適用から除外されたら、そういった生活上の資源も奪われる結果になりかねない。

だがそれを主治医に言ったところ、これまで診断が統合失調症だったし、必ずしも統合失調症でないとも言えないので、診断書はそれで出すとのことだった。

そもそも手帳も年金も開始要件よりも停止要件のほうが厳しく設定されているし、統計を見ても年金を停止された人は0点何パーの世界ではあるので、そこはそんなに心配しないでもよいとは言えるかもしれない。

 

とりあえず、生活上の闘病的な側面に関しては、まずはそんな感じだろうか。

しかしそのうち、発達障害と絡めて書いた「論理的一貫性の崩れへの過敏さ」に関しては、もう少し一般的な形で語りえることもあるかもしれない。

 

 

まず、実際に、論理的一貫性にこだわることのなにが問題なのかを考えてみよう。

まず、たしかに「机上の空論」という言葉が象徴するように、論理は論理のみで上滑りすることもあるが、基本的にはこういった言葉を正しく使った分析は、事実を言い当てるための有用なツールとなることは多々あると思われるし、それは目下目に見えていない事象、例えば人の心理などに対しても有効になることは十分にありえると思われる。

例えば、引き出しがふたつあった場合、Aさんが「おれのコップ右の引き出しから取って」と言った際に、「Aのコップが入ってるのは左の引き出しだよ」と言った場合、これは実際に内容としては事実を言い当てている場合がある。しかし問題なのは、この場合などにおいて、そもそも相手が求めていたのがコップの位置のアナウンスではなく、コップを取ってもらうことそのものだとか、引いて言えば相手の優しさや親切さ、もしくは自分の相手に対する影響力や立場上の実感だったりするために、それが文脈上、特に人間関係上適切な対応ではないという点なのである。

その点で、発達障害の特性としての、論理的な部分のみにこだわり、それに引きずられて、その言葉に付随する相手の意図や要求が見えない傾向があるということは、社会生活上の障害にはなりかねないとは言える。

しかしいっぽうで、上記の分析を見れば分かるように、論理というのは本来、その論理的帰結以上のものごとの本質だとか、論理の裏の相手の心理そのものをも対象化して分析し、把握するツールとなりえる。

もし言葉の機能を社会生活や他者とのコミュニケーションに限定するならば、その目的さえ果たせれば、ツール、すなわち手段としての言語は必要ないことになるだろう。つまり、例えば重度知的障害者同士で、言語能力が低くても、その場で要求されるコミュニケーションが問題なく成り立っているならば、少なくともその場においてはまったく問題がないと言える。

逆に、言語能力に長けていても、それがもし相互理解やコミュニケーションの円滑性を阻む方向に機能するならば、その目的のみに照らすならば、その言語能力は活かせていないと言えるだろう。

しかしそれでも、言語能力と言語を使用したものごとの理解という、人間の営みの中でもかなり重要な部分を占める営みそのものの可能性は否定されないと言わざるをえない。

 

もちろん、言語の使用に関しても、詩だとか、音楽の歌詞だとか、小説などを書く際など、ある種特殊な形での使用における特徴などもあるし、そもそも人間のコミュニケーション手段は言語だけでなく、むしろその他のいわゆる五感をつかったもののほうがある種基盤的である。

人は他者理解において、そういった五感を使った感覚的なものと、そしてそこから生まれる感情経験などを、まずは本質的なものだと考えるし、それは実際人の経験の内の重要性の観点から見て妥当だろう。

そして、言語によるそれらの描写は、そのように五感によって直接的に把握されたもののうちの一部、それを表現する人がその人なりに意識化したもののうち、言葉にされたものとしての、全体のうちのほんの一部にとどまらざるをえない。その意味では、言語は、ある人の経験のうちの非常に限定された部分を、しかも間接な形で伝達する媒体にとどまらざるをえないという面もある。

 

しかし一方で、言語には言語の特長もある。五感や感情による把握が直接的な経験に比較的限定されているのと比べ、言葉は時間的に見て記憶に残る時間が長い場合がある。この特質によって、例えば情報源が目の前になくても、過去や未来の出来事についてあれこれといつまでも考えることができるし、まったく現実的でないようなことを想定したり、本来は五感を基盤にはしているが、言葉を使うからこそ生まれるような連想によって新たな洞察や、新たな理解や、新たな表現に達することもありうる。

 

少々脱線するが、ちょっと前に少し気になったアーティストのことを思い出したのでそれについて少し書いてみようと思う。

そのアーティストとは、「ずっと真夜中でいいのに。」、いわゆる「ずとまよ」という、Z世代の有名アーティストである。そんなに聞きこんだわけでもないし、日常的に、聞き流し用に共用の空間にBGMでかけておく性質のものだともあまり思わないのだが、僕は彼女の作品自体にはかなり好感を持っている。

おそらくその理由は、心理洞察が繊細で深く、表現が多彩で巧いように思えること、そしてそれに相まった生きることへの姿勢が、けっこう僕にとって好感をもって映るからである。僕自身は、彼女の音楽に対して、以前ミスチルに持っていたほど、自分に直接重ね合わせるような共感は覚えない。しかし、その現代の若者的だったり、Twitterやネットスラング的な表現と相まって展開される音楽の中に、どこか、なんというか、生きることへの一生懸命さのようなものを感じる。

 

しかし、それ自体は僕の感覚的な問題ではある。今の話題の、言語表現のあり方という部分に話を戻そう。例えば、「お勉強しといてよ」という曲の一部を取り上げてみる。

 

去年の思い出 お洗濯したって 相変わらず

乾かないや 寒がりな季節に

ぁ~勿体ぶっていいから 個のまんま

焼き焼きだ 押し潰される無敵め

褒めあいライム・合図 変わらず

乾かないや 強がりな季節に

ぁ~勿体ぶっていいから 子のまんま

ヤンキーヤンキーだ 現状維持の無敵め

うおおおおお

 

ファンキーな直感で

今日の歌だって 変わってゆくなら

そんな理由で 飛び込んでみたいけど

ただ泣きたくて、図っといて、

集めちゃった感情参考書です。

お勉強しといてよ 解いといてよ

 

ざっくり言ってしまうなら、「お勉強しといてよ」ということの内容は、「私の気持ちをわかってほしい」ということだろう。それを、「(私の)感情という参考書を解いておいてほしい」というような表現に言い換えているという筋自体は、おそらくは妥当である。

しかしさしあたりそうだとして、こういった表現に見られるのは、日常のさまざまな出来事を結び付けるもの、言ってみれば連想の多様さ、多彩さである。そういったものが、ある種Z世代的な感性の伴った世界観、社会観に彩られている。

例えばこのように、「自分を理解してほしい」という感覚を勉強ということがらに喩えるときに「お勉強」という言葉を使う際にも、一昔前のような「紙の上での勉強がいったいなんの役に立つんだ」というような反抗心に基づいて社会を皮肉るようなニュアンスはあまり感じられない。

むしろ、学校の参考書での勉強が社会生活上役に立つ場面は少ないことも当たり前の洞察となり、なにか言う際にももうひとひねり求められるような社会状況において、はっきりとした断定を避けた、むしろものごとを一面的に見ることを避けた両義的な表現、しかしなにが言いたいかはわかる、とりあえず思い付いたそれらしいきれいなことばを考えもなしに並べているのとは明らかに違うということがはっきりと読み取れるような表現によって、自らの切実な感情を、社会的に見ても評価されるようなパフォーマンス技術と形態によって表現することに、かなり成功しているように見える。

また、その「連想」それ自体の種類も多様である。つまり、単純なイメージの連想や、いわゆるおやじギャグ的な音の連想と、よりダイナミックな文脈や生活上の意味の連想による言い換えが、さまざまな形で織り込まれている。

 

そういった観点から、例えばApple Musicでは現在ずとまよのトップソングとなっている「正しくなれない」の冒頭を見たとき、次のような一見意味がわからないような表現の中に一つ予想を入れることも可能である。

 

正しくなれない 霧が毒をみた

片っ端から確かめたくて

考え続けたい

偽りで出会えた 僕らは何一つも

奪われてないから

 

「正しくなれない」は、誰でも直接的な意味は理解できるような表現であり、いっぽうで社会的な意味での「正しさ」の理不尽さに対する感性や批判的な響きをにおわせながら、それでもそうありたい自分と、どうしてもそのような存在であれない自分の無力さを感じているような状態の表現として、共感を呼びうるようなものでありうるだろう。

だが、次の「霧が毒を見た」とはどういう意味だろうか?

上記の分析などをベースにして僕が立てた予測は、元はこれは「君が僕を見た」だったのだ、というものである。つまりこれは、おやじギャク的な意味での音による連想と、「正しくある」という行為との連関における「毒の霧」というものに対するイメージの連想を組み合わせて立てた歌詞において、元の「君と僕」の関係性に関する直接的な表現が消失したのだ、と見ることもできるだろう、ということである。

 

こういった表現上の技巧もあるが、逆に意味のすんなり通るような文脈においては、むしろ彼女の生への姿勢がより明確な形で現れると言ってもよいかもしれない。例えば、上記の部分に続く歌詞を見てみよう。

 

私を少しでも 想う弱さが

君を苦しめていますように

それすらも しょうがないって思えるほど

同じくらい 浸ってくれていますように

私を少しでも 想う強さが

君を悩ませていますように

答えを犠牲にしたって 傷つけたって

しょうがないって イタいって

明るいみたいだね

 

僕が「正直で誠実だ」と見なすのは、どちらかというとこういう姿勢である。逆に、こういった自分の心理に気づかず、むしろそれを自分に都合のいい形で合理化して、例えばこういったことを言う人や、こういう歌詞に対して単純に「相手に苦しんでほしいなんて愛がない。最悪なメンヘラ」というような評価を下す人を、僕自身は評価しないし、むしろその人は自己欺瞞的な人間だと感じる。

もちろん、こういったいわゆる「悪い」思いに開き直るのではなく、それと向き合ってなにかを模索するのは必要だとは思うが、まずはそれ自体を自分自身認められないことには始まらないようにも思われる。

 

だが、ちょっと脇道にそれてずとまよについて語り過ぎたかもしれない。

もともとは話題的には、言語表現の可能性というようなことだった。しかし、そのことは、上記を読むことができた人には、すでにある程度は納得してもらえたのではないだろうかとも思われるので、次の話題に移ってもよいかもしれない。

この言語をツールとした「事実の洞察可能性」は、それはそれである程度認められると思われる。しかし、それはコミュニケーション上どのようにはたらくか、ということも、それはそれで、(言語による分析の対象として)問いとして立てることもできるだろう。

 

実際、僕自身は、近ごろは特に、こうやってずばずばといろいろなことに関して語るということを日常的にもやっており、それはそれで気分がよく、自分のアイデンティティや自信にもつながっている。しかし、それは自分の自信の基盤がそういった分析的な事実の把握にあるというだけの話ではある。

こうやってものごとについてあれこれと論じているとき、それを論じている主体はそのものごとからある種の距離を取っている。そのようにメタな視点を取ることは、相手が、ひいてはその相手の社会が、その中で、それに基づいて動いているところの価値の土俵の外部に立つような行為であり、それ自体ある種の「マウンティングの快楽」である側面があることは、ある面から見たら否めないようにも思う。

それは、例えば僕が結婚したという事実を耳にした未婚の人が、「結婚するかどうかなんて人生において大事なことではない」とか、より強く「結婚なんてしてもしょうがない」と言ったとしてみて、それとは種類が違うと言える。

これらの言葉は、結婚することが、ある人の幸せなどなんらかの評価の指標を設けた際に、どういう役割を果たすかについて肯定的か否定的かを判断する際に、結婚の人生における位置づけに関する価値づけを逆転しようとしているという意味で、その相手と土俵自体は共有している。つまり、取れないブドウについて「あれは酸っぱいブドウだ」と言うとき、それを言った人はそのブドウを食べるかどうかがほかのより本質的な指標に照らして重要な役割を果たしうるという土俵自体は共有しており、ただそこにおける問題となっている事象の価値づけを逆転させようとしているわけである。

それに対して、もちろんこの行為はそういった土俵の内部と外部の境目で、流動的に、内部に立ったり外部に出そうになったりしながら行われるものではあるが、そのものごと自体について分析する主体自身は、さしあたりその対象としていることがらから距離を取り、もしくはその対象が立っている土俵とは別の土俵を設定している。

 

もちろん、生身の人間として生き続ける僕にとって、結婚とか、より広く言えば愛、特に恋愛に関して言えば特別なパートナーとのよい関わり合いは、依然として生活上非常に重要な事項であり、欲求や選択の対象であり、その意味で他者との比較も可能であると同時に、否定された場合の心理的な痛みも大きいことがらであり続ける。

しかし一方で、このような言葉による分析自体は、自分自身のあり方自体も相対化する一方で、その相対化された価値観よりも、ある別の意味で「価値が高い」と思われるある場に自分が立つことを意味しうる。

もちろん、その土俵間の価値づけと差異化自体に対しても新たな形を与えることは可能だし、そういった場に立たない「生活者のほうがすごい」とか、「人を批評しない人のほうが幸せだ」といったことを言うことも十分できる。その意味では、設定された土俵の外部に立つことが必ずしも「マウント」になるとは限らない。

しかし、こういった分析自体は、「マウント」と言われるような権力や自尊心をめぐる争いだけでなく、もっと大事な、人生において本当に大事だと思われるようなもののために役立てられることもありうると考えたいし、僕自身はその可能性を信じている。

 

というのは、もしこういった思考が本当に「事実を把握する」という目的のために有効な営みなのであれば、こういった営みを通して人は事実に即した生き方、ある種怪しいような、宗教的な言い回しをするならば、「真実の生き方」ができる可能性もあるだろう、ということである。

 

例えば、「宗教」という言葉が出たついでに、言葉が事実を言い当てられる可能性がある、ということの例を、キリスト教の神について考えることで示したい。

これは、「ある前提が正しいとして、それに基づく推論が正しければ、その結論も(事実として)正しいだろう」ということに基づけば、目に見えない存在、例えば神に関しても言えることがあるということである。

 

これは、前回のブログでも挙げた僕の「生きる意味友達」と先日連絡を取った際に、「幽霊がいないことを証明することはできるのか」と聞かれて答えた内容の一部である。僕はこの問いに対して、まずはそれは不可能で、事実としてなにを提示されても、いわゆる「言い逃れ」、つまり「幽霊は実際にいる」ということを守るような補助的な説を立て続けることはどこまでも可能である、と言った。

実際、ある種の精神疾患の原因論などの文脈でも、歴史的に、それこそ医学的に、ある説、それも、現実をある原理、心理的な力動論とかのある種の解釈に還元し続けることで成り立ち続けてきた治療法などがあり、その弊害が指摘される場もあった。

それに限らず、ある説が「正しくない」こと、特にあるものが「存在しない」ことを証明するという、いわゆる「悪魔の証明」は、まず不可能ではある。それは科学でも同じであり、「パラダイム」という用語も、もとはある科学説の原理的正しさを前提に据えて、それから外れる観測結果をさまざまな補助仮説を立てて守ることで成立するということを表現するために使われたのだろう。例えばそれを原理から覆したのがアインシュタインの相対性理論、そこで立てた相対性原理や光速度不変説などであって、こういったほかの観測結果の元の理論からのずれを整合的に説明する新しい理論の出現によって科学は更新されていく。

しかし、もし「幽霊が存在しない」ことを蓋然的に示す方法があるとすれば、それは、例えば、その幽霊の物語の起源に遡り、その話の発生理由を説明して、そこからその物語そのものの妥当性を問題化していく方法がありうる。

それと似ているが、もう一つ、人がそれを信じる心理を問題化していくという方法がある。例えば、ある人がある目に見えない、否定的にも肯定的にも証明不能に思われることを信じており、それが「事実だ」と言うとき、仮にその人が新たな物語だとか、その物語の細部や、詰め切れていなかった細部についての新たな情報を耳にしたとき、その取捨選択においてなにを基準にしているのかを推定する方法があると思われる。

つまり、その人が、その物語に関して、その人自身の願いや欲求に照らして、なにを信じたときに都合がいいかどうかを評価し、その都合と照らしてなにを受け入れ、なにを否定しているかを見たうえで、その人がなにを「正しいもの」と考え、それを人にも主張するかを見れば、その人の判断の根拠、ひいてはその判断の事実に照らした正しさが、ある程度推測可能だろうということである。

さらにもう一つ考えられるのは、他の物語との比較である。例えば幽霊の存在は、人が死んだあとはいったん存在としてはこの世から分離された場所にあり、最後の審判などのタイミングで一気に出てくると考えている文化においては都合が悪く、そういった文化においてはその説自体が見られづらいだろうと思われる。例えば、インド起源の思想を有する文化や、例えばある仏教圏などでは、前世の記憶をもって生まれた子どもの存在が「証明」され、実際にその方法は次期ダライラマの決定などに応用されている。

しかし、キリスト教圏ではむしろ生まれ変わりの説は自分たちの宗教の真理性の基準から見ると都合が悪いので、そういった話は比較的聞かれにくく、ましてや輪廻転生の証明に取り組む学問的な営みがあるとは考えづらい。そもそもそれが存在しては都合が悪い文化や人間にとっては、その都合の悪い事実の証明に対するモチベーションが生まれづらいからである。

 

さて、前置きが長くなったが、神の存在について考えてみたい。ただ、今から書くことは西洋においてはもう一神教の発祥の当時から延々と議論されていることであり、そこから見たら特に目新しい話ではない。それは、日本語訳では「神義論」とか「弁神論」という名のもとに議論されている、キリスト教の神をめぐる大問題である。

 

これは要約すると、もし「最善」「全知」「全能」の神がいるならば、この世に悪が存在することと矛盾する、という話である。

実際、この世で起こっていることをすべて知っている神がいたとして、もしそれが最善の神、すなわち「悪の存在を許さない神」であって、その神が全能、つまりなんでもできるならば、この世の悪を消すだろう。もしこの世に悪が実際にあるのだとして、少なくともわれわれには、自然悪(自然災害など)や社会悪も含め、実際に理不尽な悪だらけであるように見えるのだが、もし実際にこれが「悪の存在」と認められるならば、最善・全知・全能の神は存在しないとまずは推定可能である。

しかし、ある種のクリスチャンにとっては神の存在いかんは自らの霊的な意味での生死に関わる大問題であり、生きる死ぬよりも大事な部分を否定されることを意味しかねない。それで、例えば「この世界はこれで最善なのだ」とか、「あの世で救われるからよいのだ」とか、「この世はわれわれの成長のために神が試練を与えてくれる場なのだ」とか、もっと元も子もないのは「神の意図はわれわれには量り知れないので、われわれがあれこれ考えて出す答え自体が無効なのだ」など、さまざまに考えることによって、神観念自体は守ろうとするわけである。

しかし、反省的な人間がアウシュビッツや大地震などを経験した際には、こういったある種の言い訳自体が問題化されざるをえない。その中で、近ごろのざっくりした方向性としては、その神観念の3つの徴表のうち、神の「全能性」を放棄するものがけっこう広まっているとも聞く。

つまり、「神は善い存在で、なんでも知っているのだが、われわれを救うことはできず、むしろ無力感を持ちながらわれわれとともに悩んでくださるのだ」とする方向性である。たしかにこれは、ほかの「最善」と「全知」のどちらかを捨てるよりも折り合いが付きやすい気がする。だがそうすると、その神はこれまでクリスチャンが信じてきた神と同じだと言えるのだろうか。この世界も変えられない神が死後にわれわれを神の国に入れて救うことができるかどうかに不安になる人はいないのだろうか。だが、それに対してどう実存的な決断をするかに関しては、その生の姿勢自体に関しては、それを信仰するクリスチャンの問題であり、この記録の文脈ともずれるので、さしあたりはこのあたりで話を戻すことにしたい。

 

もともとのテーマは、「言語の事実認識に対する有用性について」だった。そして、それを例証するために、目に見えない存在の代表である神を引き合いに出した。

僕も以前クリスチャンと話をした際、その人の実践や思想の細かい部分が矛盾しているように見え、それに対して疑問を投げかけたときに、その人は「それは僕にはわからない」と答えたうえで、その人は気のよい人なので嫌味な言い方ではなかったものの、「だいちさんは論理的一貫性を大事にしているが、僕はもっと、感性だとか、感情的なものを大事にしている」というようなことを言ったのを覚えている。

実際には僕も、論理的一貫性自体が最終目的だとは思わないし、むしろ論理はそれにアプローチするツールに過ぎない。特に当時、僕が根本的に求めていたものは宗教的な領域にあり、特に僕の分析の対象は、われわれの救いや、そのための実践の真理性だった。

そのとき、僕が分析して不可能だとおもったことは、具体的には詳しく覚えていないのだが、おそらくそのときの前提に照らして実際に不可能だっただろう、少なくとも僕にはそう思われたのだろうと思う。その人は、僕が「論理的であること」を問題化したが、もし、例えば僕が上記の「コップを取って」と言われた文脈で、仮に実際にコップを取るためにはどうしたらいいかが問題になった場合、そしてAさんのコップが実際に左の引き出しに入っていたならば、僕は右の引き出しからAさんのコップを取り出すことはできない。

これは論理的な表現ではあるが実際にそうなのであり、宗教的な文脈においても僕は結局同じような指摘をしたはずだと思う。もしそれを「論理的で分析的だから机上の空論に過ぎない」と言った場合、果たしてその人は、その人の現実把握に基づいて、その人の実践方法で、その人の願うものに到達することができるのだろうか。

 

だがここからは、また少し視点を変えた話をしたい。というのは、そもそもそんなことは誰しも五十歩百歩なのである。というか、自分をごまかすこと、言ってみれば防衛機制、心理規制は、あったほうが心理的に健康だと言える場合も多いだろう。自分の見たくないものを見ずに、自分の立場を正当化することによって、自分を守るということ。言ってみれば「事実を見ないこと」それ自体が、その人にとって、その人の思う「大事なもの」を守る手段なのであり、当座の状況でそれ以外の回路を見出せないならば、それ自体は生きるうえで正しい戦略で十分にありうる。

そして、僕自身は、ある人がなにかを切実に大事に思うこと、そしてそれを守ろうとしたり、それが欠けている場合にはそれを追究しようとすることそのものには、非常に共感的だと思う。その意味で、上記では宗教的観念をある面から批判したし、「自分をごまかしている人」に対するいら立ちのような感情も吐露したが、そういった人間の営み自体は非常に切実な、その人の大事にするものそのものに関わるようなことであり、ある種非常に尊いものだと思う。

 

そして、僕のブログがなぜ批判されるのかという最初に提示した論点に戻ろう。

その理由のいったんには、僕の語り方の調子や、語る姿勢がその人にどう映るかというのも大きく影響しているかもしれないが、そこには、僕がブログで述べること、それはある種の意見であり、実際はそれは事実と照らして妥当かどうかが判定されえるものであるが、そこに含まれるある種の「正しさ」それ自体が、その人の大事にしているものを傷つけるから、ということがあるのではないだろうか。

 

しばらく前に僕のブログが炎上したとき、その発端となったある人が、僕の過去の問題発言を取り上げた。それは具体的には言われなかったが、僕の推定する、僕のあるSNSにおける数年前の僕の発言は、僕がある障害児を持つ親から「この世のすべてに意味がないというのなら、私の子の人生にも意味がないというのか」とコメントを書き込まれたときに、僕が「そうだ」と、はっきりと肯定的な発言をしたことであり、その「意味のない生」の例を列挙した際に、「チキンナゲットになるだけの鶏」を含めたことである。その親は、自分の子をチキンナゲットと同等視されたことに酷く傷ついたとされる。

 

近ごろ僕は、福祉思想家が動物についてなにを考えているのかがわかりかねていた。福祉思想の根本的な動機の一部には、そもそも「現在関心の対象になっていない、生まれや環境によって共同体から排除された弱者の生にも尊厳や権利を認め、社会全体がそういった存在に対して豊かな生を保障していくべきだ」という発想があるのではないだろうか。そしてもしそうだとしたら、その原理そのものからいけば、当然動物もその福祉の対象にならざるをえない。

 

しかし、そもそも動物の生を豊かにすることは、われわれ人間が豊かな生を送るということと衝突するのは明らかである。猫や犬に対しては動物愛護管理法が適用され、先日は掲示板で、令和4年半ばに愛玩動物の体内に飼い主の情報を入れたマイクロチップを埋め込むことが義務化されたことを知った。そのことの管理上の有効性と、このような露骨な管理に対して飼い主の感情的な反発から来る抗議が予想されることなどを措くと、まずは「愛玩動物」は愛護の対象だし、人もある種の生物に対しては共感し、その動物と共生することの中で喜びや心の豊かさを感じることができる。この法整備は、そのような状況で、行方不明となった動物を確保した自治体などが飼い主を特定するまでの経過において育成や処分を行う際の問題などを考えたり、また広くは社会的に孤立すると同時に自らの生活上のキャパシティに対する判断力がない人が動物をたくさん育てすぎて生活環境が悪化するといった愛玩動物との共生上の問題を社会的に調整するためのものではある。だが、このこと自体に伴う問題群は措いてざっくり言うと、愛玩動物に共生の輪を広げる動き自体は存在はする。

 

しかし、肉牛やブロイラーといった、畜産対象として商品の生産に役立てる目的で人間によって大量に生み出される存在はどうだろうか。そういった存在は、乳牛や卵用の鶏であれ、用が済んだら殺処分される。もしくはカラスやクマといった、生活環境をおびやかしかねない動物はどうだろうか。もっと言えば、コロナウイルスはどうだろうか。

こういった、自分たちにとって「守ると都合が悪い」と判断される生を見た際の人の反応は、基本的には、なんとかしてその生を守るべき存在の外部に追いやり、追いやったこと自体も意識から消すことでありうる。それは以前は黒人やユダヤ人など、そもそも種的に人間である存在に対しても行われてきたことだが、それは戦略としては、例えば守るべき基準の線引きを工夫するというのがある。

「人間の権利を認めるべき」と言うなら、排除する相手に対して、なんらかのその相手が該当しない基準を設けて、「人間でない」と言うとかで、言語上の操作をすることである。「知的でなければ尊厳がない」とか、「自由な態度決定の可能性」とか、ある種の特性に尊厳があるかどうかの基準を還元することによってそれは担保される。

「生物を守るべき」と言った相手には、「コロナウイルスはRNA一本鎖だから生物には該当しない」などと言えばいい。「痛みを感じるか」を基準にするなら、相手の痛みを感じる程度を低く見積もればいい。痛みの種類を分けて、ある種の痛みを感じない生を線の外においてもよい。だが、コロナウイルスは実際に生存闘争に参加しているように見えるし、痛みを感じないかどうかなどはわからない。

しかし結局、そこで行われていることの本質は、そもそも守りたいと思わない相手をなんとか線引きの外に追いやろうとする操作であるとは言える。

 

そしてもっと言えば、そもそもこれはこの世界で生きる以上せざるをえない。われわれは、自分たちにとって都合の悪い生、都合の悪い思想などを、自分の生存に関わるなんらかの意味での「圏内」、それは物理的でも心理的でもありうるが、そこから排除せずには生きられないのである。もっと言えば、そうやってある種の生にまつわる「価値」や「意味」を排除して生きなければ、納得して死んでいくことすらできない。

おそらくそれは、この世界で生きるうえでの非情な現実であり、この世界の悲惨さのうち比較的根本的な部分を作り上げている要素だろう。

 

しかし、もしこの世界が生存闘争の場に過ぎないならば、僕自身は、納得がいかないというのも確かである。

 

先日、NHKが、福祉関係のネット記事で、ある障害児の親の文章をそのまま載せていた。そこでは障害児を育てる苦労、その中での出来事の一端が語られ、次第にその子の人生とその子との関わりを肯定的に見ていくような調子になった後、最後こういうような文章で締めくくられていた。

「ある人が、子どもは親を選んで生まれて来ると言っていた。でも、今なら言える。私がこの子を選んだんだよ、と」。

これを見たとき、僕は変な違和感を覚えた。この考え自体はある種福祉的であり、親としての倫理に社会的に見てもかなっており、こういった考えが取り上げられ、評価される社会は、ある種福祉的で、健全な社会だと言えるだろう。だが、こうやってメディアで語ること自体は、障害児の親としてその子を大切にするということそのものとは、本来は、関係ないはずである。

僕も、先日バスに乗っていて、もし今のパートナーとの子どもができたとして、それが深刻な障害を持った子だったら、と想像した。社会的には優生思想が糾弾の的になる一方、現在のある統計では、出生前診断で子がダウン症の診断を受けた親の90%以上、ほぼ100%だったと思うが、ある統計上の数値としては少なくともその割合の親が中絶を選ぶ。

その中でではないが、もしそのような選択を皆がするような、ダウン症だと不幸になるとみなされるような社会で、自分にそれが降りかかったとして、僕はなぜその子を生かすことを選ぶのだろうか。

そう考えたときに、僕の脳裏をよぎったある観念は、上記の親に対する僕の視線と関わりが深い。僕は、そういう子を育てた親となるという社会的アイデンティティを得ることを想像したのである。

もし、僕がほんとうにダウン症の子を育てたとしよう。そして、そのことが評価されるような社会で、僕の生い立ちや、その中で練り上げられた僕の思想も注目され、社会的に評価されることになったとしよう。それは僕にとってはある種の喜びかもしれない。

しかしはっきり言って、そのこと自体は、その子の生の尊厳そのものとは、そんなものが仮に実在したとして、それとはおそらくはまったく関係のないことだろう。

もし僕がそれに浴することに満足したならば、僕は実際には「ダウン症の子の生の尊厳を守った立派な親」なのではなく、「ダウン症の子の生の尊厳を守った立派な親」という社会的評価を得るために子の人生を利用した一人の凡人に過ぎない。

 

このことは、ひいて言えば、社会的環境や社会風土が、福祉的思想だとか、ダイバーシティだとか、SDGsだとか、なんらかの思想を持った人を評価するような状況になればなるほど、その思想において当初目指されていた本質は見えにくくなっていくだろうということである。

ある人は、「優しい人が報われるような世の中であってほしい」と言った。そして、実際に優しい人が社会的に評価され、優しい人の地位が向上し、仕事上でも成功するようになったかもしれない。だがそのとき、人としての本来の優しさと、その人が心理的報酬や権力上、社会的関係上における報酬を得る目的で、意識的、もしくは無意識的に実現する優しさを区別することは、非常に難しくなってくるだろう。

果たして、福祉が発達した社会において、本来の、本質的な、凝縮された形での「福祉マインド」は、そうでない社会よりも質的・量的に増えているのだろうか。そもそもそんなものはあるのかという問いはそれはそれで成立するだろう。だが、もしそれが単に「社会的につくられるもの」に過ぎない場合、そのことに本来の価値はあるといえるのだろうか。

 

さて、このあたりでそろそろいったん記録のきりを付けることにしたい。

だが、上記を読んで実際に思った人もいるかもしれないが、こうやってずばずばと意見を述べることは、上にいったんほのめかした通り、それ自体人を傷つけ、人の大事に守っているものを否定する。例えば、人間が結局「恣意的な線引きによって共同体を作っている存在に過ぎない」という主張は、そもそも人権思想だとか、それこそダイバーシティ思想、それに基づいて「社会悪と闘う」人の、その批判の刃を削ぐことになる。なぜなら、結局その線引きが恣意的なものに過ぎないなら、その線引きや、権利の主張自体を正当化する根拠も疑われざるをえないからである。

そういった運動、フェミニズムを含んだマイノリティの運動の理論的根拠づけの一部には、「公平で公正な社会の正しさ」があり、その運動のためには、それが社会的正義であるという土俵を闘う相手と共有していることが必要である。

上記の僕の考えは、そういった人にとっては耳をふさぎたくなるような話にならざるえない。それどころか、もっと言えば、障害者として、マイノリティとして生きる僕がそれを認めてしまって、さらにそれが仮に社会的にも通用するようになってしまって、僕が動物に対するようにそれに「開き直る」人、それに開き直ることが(実際僕はいまからボロネーゼパスタを食べる)「みんながやっていること」、したがって「たいして悪くないようなこと」と認識された場合、社会的弱者としての僕も、生存上の資源や居場所を、なんらかの形で制限されるか、奪われることになるだろう。

 

もしそうだとしたならば、僕はこういったことを、語ってもいいかもしれないが、社会に認めさせてはいけない、というより、仮にそうなったら僕が困る、ということになる。そのとき問われてくるのは、結局のところ、人は真理と幸福とどちらを選ぶのか、という問いである。

 

仮に、「真理」、つまりこの世の事実を、自らの「幸福」よりも大事にする人を「哲学者」と呼ぶとしよう。すると、僕自身の自覚から言って、僕は「哲学者」ではない。なぜなら、僕がこういったことを考えるのは、事実の自覚そのもののためではないからである。

 

僕が事実を知りたいのは、事実によって、ある種の幸福になりたいからである。そしてそのためには、僕が「生きる意味」と言ってきたところのものが、必要不可欠である。

統計的に平均を取るならば、今日も日本だけでも60人か70人ぐらいの人は自殺するだろう。その人たちは、僕が生きる意味の問いを忘れて主観的に納得のいく人生を送ろうが、われわれが今後平等な社会の実現に近づこうが、救われないだろう。その人たちが救われるためには、なんらかの意味で、宗教の語るような救いの物語が、事実であることが必要である。それを僕がずっと「生きる意味」「生と世界の意味」と呼んでいたかはまだ疑問の余地があるかもしれないが、もし、僕が、すべての他者が救われないと人生に納得がいかないと考え続けるならば、そういった宗教的なものが実現するということを確信する以外に道はない。

もちろん、もしそういった事実が実際にあったならば、僕がそれを知ろうが知らまいがそれは実現するだろう。僕が今知りたいのは、今納得したいからに過ぎず、本当にすべての存在が救われるならば今僕がそれを知ろうが知らまいが結局すべての生は救われることになる。だから、ある意味、僕がそれを自覚しようとすることは意味がないし、そもそもそんな真理にアプローチする方法を今の僕はなにも思い付かないし、もし思い付いたり提案されたりしても、今のパートナーとの生活を、その一部であっても、犠牲にしてまでそれに賭ける価値をそのことに認めはしないだろう。

 

上記のことから帰結するのは、僕は先に定義した意味での「哲学者」ではない、つまり、僕は真理よりも幸福を愛する人間であるということである。

 

だが、それを言ったら、20世紀最大の哲学者と言われるハイデガーなどの生きざまを聞きかじった印象でも、ハイデガーはその意味における「哲学者」だとは思われない。少なくとも、もしハイデガーが真理を幸福より愛する人間だったとしても、社会的に見てその「真理」を、例えばフライブルク大学の学長時代などに語ろうとしたかというと、そうではないと言えるか、もしくは真理を誤認していたのではないかと、「ハイルヒトラー」で締めくくられた演説の話を聞いたりすると、僕自身は思う。

 

とりあえず、記録を付け始めたらめちゃくちゃ長くなってきてしまって、もはやこれアメブロに上がる分量なのだろうか…。

 

まだネタとしては書いていないことがあって、それは「愛」、特に無条件の愛とか純粋な愛とかについてパートナーと話した内容とか、キリスト教など宗教が愛を語ることの意味、特に愛を理想として語ることは実際に世界に愛を実現しているかどうかについて、宗教戦争論を専門とする人の本を読みながら考えた感想などである。

あと職場でもいろいろ思うことがあって基本的には書けないのだが、抽象化した上で書くことができるものもあるかもしれない。

 

だがとりあえず、ボロネーゼパスタはもう冷めてしまったものの、食べたいと思う。

週末はフットサルの試合で、僕の「ヒステリー球」の具合もあって心配もあるのだががんばりたいと思うし、ざっくり言うとまずは身近な生活を大事にして、平凡に暮らしていくことにしたいと思っている。

 

ほしたら、とりあえずここまで。


最後に、冷めて固まったボロネーゼパスタの様子を載せることでオチとしたい。



結局レンジで温めてもらっておいしくいただきました。

牛肉の旨みが活きてましたね!