駿台模試感想 ほか日記 | 生きる苦しみと希望の記録

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日々思ったことを書いています。生きる意味について書いたものが多いかも。

今日は模試を受けてきた。「第2回駿台atama+共通テスト模試」というやつである。

2か月ほど前に医学部を再受験すると言って勉強を始めてから、最初の模試ということになる。

実に合計回答時間9時間超えという長丁場だったが、なんとかやりきった。

共に受けた人たちの健闘を称えたいところだが、そんな偉そうなことを言っていられるような得点率ではないようである。

 

自己採点してみたのだが、合計7割ぐらいしかなかった。英語が8割超えたぐらいで、理科7割、国語150点弱、倫理政経が62点(うち倫理分野は満点 苦笑)、そして数学に至っては106点という崩壊ぶりである。

国公立医学部を志望校に書いたが、これだとほぼ100%E判定だろう。

 

しかし、帰ってから少々調べてみたところ、実際には、駿台模試はほかの模試と比較して難しいらしい。共通テスト模試でも難易度は最も高いようである。

だが、ちょっと調べてみた感じだと、それでもこの得点率だとE判定はほぼ確実である。

国公立医学部はそう甘くはない。

 

しかし、仕事をしながらゼロから(まあ昔やっていたが)勉強して2か月でここまでこぎつけたこと、そして、とりあえず最後まで受けきったことで、自分をほめることにしたい。

 

ちなみに数学が崩壊したのは実力不足ももちろんのことだが、それ以外にもある原因がある。二次関数の問題に時間を食ってしまったのである。

 

その問題は、「フロンタ」という人気キャラクター(?)(駿台のゆるキャラっぽい雰囲気)のアクションゲームを作るものである。

問題は、フロンタを含めたゲームの基本設定から始まり、フロンタをジャンプさせて100点ブロックを下からたたく場合や、ジャンプボタンを連打してフロンタに羽を生えさせ、スーパージャンプによって谷を飛び越えさせる場合などへと進み、最後にフロンタがその放物線運動によって飛び越えられる最大の障害物としての、「第一志望タワー」のようなものの高さを計算するところで終結する。

僕は、この最後の問題で障害物の高さを求めたとき、解答欄の形と数値が一致していないことに気が付いたが、この「第一志望を超える問題」をなんとしてでも完答したくなってしまった。それで再計算したのだが、やはり合わなかったので回答を適当に書いて次の問題に行った。これに時間を食ってしまったのである。

ここから得られる教訓は、「合格を意識すると失敗する」ということであろう。

 

…ということをふざけた調子で書いているところからしても、まだ覚悟が足りないと言えるかもしれない。

 

(ちなみに、倫理政経では、倫理分野が満点かつ全体では62点ということで、僕のシティズンシップの欠落がバレバレである。というか、よくこれで教えていたものだ…。)

 

実は、帰ってから(なんだか模試がセンターよりも難しく感じたので)駿台の模試の難易度を調べていると、いくつかのアメブロの記事が引っかかった。

一つは、40歳ぐらいで医学部を再受験しようとしている人のもので、今回の僕の得点率より少し低いぐらいの結果を公開しているものだった。その記事のコメントはかなり酷かった。ボロクソな言われようだった。

なので、ここでリンクを貼ることはしない。むしろ紹介というか、感銘(とプレッシャー)を受けた記事として貼っておこうと思うのは、「ふぅ」さんのブログである。

 

医学に対するとても熱い思いがつづられていた。2浪して、一生懸命勉強したようである。駿台の受験直前の共通テスト模試の成績も、僕などよりも断然よい。

そして、多くの苦しみと困難を乗り越えてきたたように見える。それはそれはがんばったのだろう。しかし、それでも国公立医学部には受かることはできなかった。

最終的に私大の医学部に入ったようであるが、医学に対する想いがあまりにも熱い(ような印象を受ける)。

 

ブログ 「ふぅは医者になりたい。」 『合否結果』

 

正直、ここまでの熱さを見ると、自分が恥ずかしくなってくる。

というか、ここまでやっても受からないのに、仕事しながら勉強して10か月足らずで受かったら失礼というか、そんなのはどだい無理な話である。

正直、国公立医学部を少々甘く見ていた。不安神経症を患いながら東大理Ⅱに受かった現役のときはちょっと勉強への執念が異常だったが、あれぐらいやってはじめてなんとかなるのだろう。

 

しかし、さしあたりは、諦めるという選択肢は考えていない。むしろちょっと燃えてきた。

たしかに、医学部受験というものは「挑戦欲」に駆り立てられてやるものではない面があるのかもしれないが、願っていることに向けて挑戦できるということは、苦難である一方喜びである面もある。それが最終的に善いことと結びついたならそれは幸福な調和ではあるだろう。

 

実際には、おそらくさまざまな条件から、そもそもの「勉強」ということに対する能力の格差が存在しえるということも考えられる。その点、ブログの方は(もちろん人よりは、僕よりも、ぜんぜんできるのだが)熱い想いがあったが、そのあたりで阻まれたと言えるのかもしれない。だが、本来医者になるべき人間はこういう人だとも思う。もちろん、最低限の学力的・能力的条件をクリアすることは要求されるのだろうが、少なくとも人から「医者になってほしい」と望まれるような人というのは、こういう熱い想いを持った人だろうと思われる。

 

最近ときどき見ている、ある東大医学部のYouTuberがいて、彼は医学部の在学中に司法試験を一発合格したのだが、おそらく彼は医者にも弁護士にもならないだろう。(そういえば、女性問題を起こしたという記事も見かけた。ある女性と出会った日に妊娠させ、「まだ人間ではないから」と言って下ろさせたと書いてあった。)世の中には、こういう勉強ということにカスタマイズされた人もいる。もしかすると、いやおそらくは、僕もそちら寄りの人間なのだろう。

 

しかし、もしそうだとしても、そうだとしたならば、そのうえでなにができるのか。僕なりの生き方として、どのようなものがありうるのか。それはどこまでも問われてくる。

僕は20年ほど苦境の中で生きることの意味を問い続けてきて、その経験を直接形にする方向性も考えたいと思っているのだが、まずは目の前のできることに全力で取り組むことを考えるべきだろうとも思われる。

さしあたりは、次の模試を調べ、それに向けて勉強に励みたい(明日の仕事後になってしまうのだが…)。