ハローワークの本登録と相談も終わり、デイケアでスタッフさんとも相談した結果、障害者雇用の仕事に関しては応募する職場を決定した。
しかしその職場は事前見学が可能のようなので、月曜にでもハローワークに連絡して、さしあたり見学する方向で話を進めたい。
木曜は、午後4時から、在学中に行っていた禅関係の読書会が開催される予定だった。
それはもう行くのをやめようと思っていたのだが、共有されたレジュメを見ていると、行けばなにかあるような気がしてきて、とりあえず研究室の前に資料を取りに行った。
するとお世話になっていた人にはちあわせて少々話すことになり、研究室とはつながりを持ち続けるのがいいという話になった。
ハローワークはその日の午後1時半からだったが、バスの中で資料を読み、面談を終わらせた後で、やはり読書会には行くことにした。
結果としては、行って割とよかったと思う。
読書会で扱った禅者によると、ニヒリズムとは絶対二律背反であり、それは人が生死・存在非存在という状況、そしてそれに伴う価値・反価値の対立構造に必然的に巻き込まれていることである。
もし先日の日記で扱った根元的否定の感覚をニヒリズムと同定することが許されるならば、この禅者にしたがえば、この構造から脱却することによってそれは乗り越えることができる。
それは無相の自己に目覚めることによって生死を超えることである。
この禅者はそのための方法を明示してはいないが、本人は坐禅修行によって(一年という短期間で)超えたようである。
実は近くの寺でこの禅者が立てた協会の論究会・坐禅会が毎週土曜に開かれている。
僕は休学の面談の際、教授に、先日亡くなった別の禅者の行っていた同寺で開かれている坐禅会を紹介されたのだが、どちらにするか迷って教授に情報提供を仰ごうと思っていたら今日(土曜)になってしまった。
実は今日は1時半から卓球の練習試合に誘われていたのだが、先日水曜のソフトボールの試合で腰を痛めていたのもあり、それを断って、読書会で読んでいる本を書いた方の禅者の立てた協会の集会に顔を出してみることにした。
行ってみると、以前行った泊まり込みの坐禅会とは違って割とゆるい感じで、みんな割と気さくな感じだったので発言もしやすかった。
30分間坐った後5人で行われる論究に参加したのだが、ほとんど僕の質問にみんなが答える形になって、ある意味基本的な質問に時間を取らせて悪いことをした。
坐禅の集まりなのに、今はエックハルト・トールのスピリチュアル的な本を読んで意見交換しているらしい。
しかし、だいたいの筋は、「大きないのちに生かされていることに気づけばスピリチュアルな要求が満たされる」ということだった。
そして、これに気づくのは頭で考えることによっては不可能で、実感として理解するしかないということである。
これ自体はよく聞く言い回しではあるのだが、真正面から言われるとよくわからない話ではある。
まずある人が「修行をして悟りを目指すというのは間違っている。今ここで悟っているということに気づくことにしか悟りはない」と言った。
僕は最近道元の修証一等の話を読んだのだが、そこでも、「修行は悟りを目的として、それを期待して行ってはならない。修行は悟りを基盤として、それを原因として成立しており、修行をすることがすでに悟りなのだから、修行に徹するだけでよい」といったことが書かれていた。
つまり、修行というのは、もともとすでに自らがいた空の次元を自らの心身をもって体現することであり、したがってそれは悟りの手段ではなくむしろ原因であり、人はすでに空の次元にいたから修行ができるのだ、ということである。
しかし、僕はこの理屈を聞いたとき、それなら別に修行しなくても悟っているのではないか、と思った。
そもそも現実の底に空の場が常にはたらいていて、それが根元的な肯定なのだとすれば、人はなにもしなくても肯定されていることになるので、そもそも修行する必要はない。
だから「修行することが悟りそのもの」ではなく、「生死が悟りそのもの」であるはずである。これがまず一点。
またそれと同時に、もしそうだとしても、その「空の場が現実の底にはたらいている」ということを自覚するためには、なんらかの変化が必要だろうということである。
そして、もしそれを自覚することがある種の悟りだとするならば、人はやはりそれを自覚するためになんらかの変化を経なくてはならない。
「人はもともと悟っているのだ」と言ったところで、この私はまったくそんな気がしないという現実があり、それをどうすることもできない。
だから、先日の日記の根元的否定が深いところでは事実でなかったとしても、この私はそれを知ることができないのであり、僕はそれを知るためにもがいているわけである。
しかし、そこの参加者の人たちは、(年配の方たちだったが、)「すべて理解済み」とばかりに僕に対していろいろと説明をした。
いわく、分からないのは当たり前である。「この私」がわかろうとがんばっても無駄なのであり、そうやってがんばる私、悩み苦しむ私を大きないのちが生かしているのである。
だから、この私は、どうがんばっても悟ることができない。しかし、その悟れない自分のままで、大きないのち(空の場)に生かされている。
それに気づかなければほんとうに活き活きと生きることはできない。自己と世界を根元的に肯定することはできない。
実際には単純な話で、それに気づけばいいだけなのである。
しかし、そう言われても、そのように「大きないのちに生かされている」気がまったくしないというか、そのような実感がぜんぜんわかないのだから仕方のない話である。
自分が「どうしてもそう感じない」と言うと、彼らは、それはそうだ、わからないのが当たり前だ、でもそのままで生かされているのだ、と言う。
こうしてみると、彼らと自分の間には厳然とした差異がある。
彼らは生かされているという大前提のもとで話をしている。しかし、僕はそもそもその「生かされている」ということを疑っているし、その実感がないのである。
しかし、彼らは、なんの差異もないと言う。なぜなら、われわれは生かされている者としては同一だからである。われわれはみんなすでに悟っているのである。
それで、彼らの内そのことを確信していそうな人に、「僕は大きないのちに生かされてはいない可能性もあると思っているのですが、その可能性は考えられますか」と指摘してみたのだが、そんなことはない、われわれは生かされている、とその人は答えた。
これでは平行線であり、やはりここにはもはや信仰の有無ぐらいの差異があるように思われた。しかも、彼らはもはや「信仰」レベルではなく、それを体得・体認しているようなのである。
修証一等の話にしても、初めから悟っていたということに気づく特権的な瞬間が坐禅中に訪れるといったことが述べられると思うが、それを得ることが必要なのだろう。
しかし、その悟りに向けて努力してもムダという話なのである。この小さな個我がいくら励んだところで、自分からそれを知ることはできないのだ。
しかし、話の途中で、「大きないのちに生かされている」ということに関して説明を付け加える人がいた。
いわく、われわれは宇宙のすべてのものとつながっているし、親だけでなく連綿と続くいのちの連鎖の中でたまたま生まれた存在である。しかも、われわれの意志によってコントロールできることは、われわれ自身の体ですら、ほとんどない。これはもはや生かされているとしか言えないだろう、と。
しかし、それは確かに認めるのだが、今話しているのは、その大きないのちに生かされているということが、空の場がわれわれの存在の底に常にはたらいており、それは根元的な肯定になるという話だったはずである。
「私の存在はありがたい奇跡だ」という話ではない。私の存在が偶然的で私によってコントロール不能であるということは、ある意味で「生かされている」ということにはなるが、それはそれだけではニヒリズムに対する十分な反論にはなりえない。
それがほんとうにニヒリズムを超えたものとなるためには、それが文字通りニヒリズムを払拭するものであることが必要なのである。
そのためには、われわれが不思議な力で生かされているとか、私が生きるということは文字通り「有り難い」ことであるというだけでは弱い。それではただの有難迷惑にもなりかねない。だからこそ多くの人がこの生を否定して自殺していくのではないか。
僕がしているのはそういう話ではない。そうではなくて、僕が求めているのは、自殺しようがなんだろうが、この生には意味があるということの根拠なのである。
またある人は言った。意味があるとかないとか言うのは間違っている。仏教的な立場から言ったらこの世界は非意味であって、つまり無常であって、意味がどうとか言う問題ではない。そういうものを超えて、生かされているということが大事なのだ。
しかし、僕が根元的肯定とか根源的な意味だとか言っているものは、この世界と自己がヒヒリズムを超えているということなのだから、さしあたりそれを「生きる意味」とは言っているが、内容としては、すでにそのレベルでの意味―無意味を通過した後の話である。
だから、僕がさしあたり生きる意味があるとかないとか言っているのを指して「それはおかしい」というのはおかしい、というか、ディスコミュニケーション状態なだけである。
結局のところ、問題は、根元的否定を払拭するような経験がいかにして可能かということである。
それは自分でいくらがんばってもムリだという話ならもうお手上げであり、その上でその「ニヒリズムを超えた空の場の働きによってわれわれはみなすでに悟りの内にある」ということが信じられなければもはや絶望である。
ただ、この「がんばってもムダだけど修行しよう」という構造は見たことがある。
以前マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)を実践しようとしていたとき、同様の矛盾の謎が解けずに頓挫したのである。
マインドフルネス瞑想では、瞑想になにも期待せず、瞑想からなにも得ようとしないことが求められる。なにも求めないときに求めるものが得られるというのである。
しかし、なににも期待してはいけないならなにに動機づけられて瞑想に向かえばいいのかわからない。瞑想自体が楽しいとか癖や習慣になっているとかならやるのかもしれないが、そもそも努力しないと瞑想に向かえないときに、なにも期待しないで瞑想に動機づけられるということは不可能である。
僕は結局この謎が解けなかったのだが、おそらく彼らの言っていることはこのことと直接関係がある。
この矛盾した状況を体得的に腑に落ちる形で理解したときが、ある種の悟りと言ってもいいのかもしれないとは思われる。
食堂でこれを書いているが、友人がたまたま来たのでとりあえずこのあたりで切り上げる。