日記+S氏とのやり取り記録 | 生きる苦しみと希望の記録

生きる苦しみと希望の記録

日々思ったことを書いています。生きる意味について書いたものが多いかも。

今日はデイケアで、午後から、7月頭の夏フェス(デイケアの音楽会)に向けてのスタジオ練習会があった。1時間半ぐらいでみんなでぐるぐる回す感じだったが、豪華な話である。

僕はコブクロの「ここにしか咲かない花」のギターアルペジオとハモリパート、それと友人の歌うTwo steps behindという洋楽のバッキングをリハーサルした。


午前は高坂正顕の『西洋哲学史』を読んでいた。中断していたのだが、先日の日記(「数学を勉強してなんの役に立つのか」と生きる意味について+応援したい友人 他日記)へのコメントを受けてまた再開したのである。
そのコメントでのやり取りは、納得した面もあるが釈然としない部分もある。しかし、自分にとっては大変有益だったと思うので、一応日記上(この日記の末尾)に全文を記録したいと思う。
『西洋哲学史』は130ページぐらいまで進み、今アウグスティヌスのあたりである。先日、「研究室のODの彼なら一日で800ページ全部読める。てか一日で3回通り読める」と言われたのはある意味ショックだが(その真偽と、それがどのような意味で言えるのかは不確かな面もあるが、なんとなく彼ならマジでやりそうである)、自分の第一目的は博覧であることではないので、がんばってそう防衛機制的に考えることでちょっと落ち着こうと思う。
しかしさらに、これを読んでいた関係で過去の日本の哲学者についても調べていたのだが、いちいち調べる人が偉大過ぎるというか、経歴や知的能力がありすぎてうんざりする話ではある。
それはやはりどこかで自分も彼らのようになりたいと思い、彼らと自分を比較し、しかも彼らのようになることが不可能だと思っている面があるからだとも思われる。
実際、彼らは僕の年齢の時分にはすでに輝かしい業績を上げているが、業績面で彼らに追い付くのは絶望的というか、そもそも僕の現状ではこれからがんばったとしてひとつぐらい仕事らしい仕事ができたら奇跡ぐらいの状況だろう。
ただ、こういったことはある意味名誉の世界に属することであって、それと自分の本来願うもの、本当に心底願っているものの実現は、それと関係や相関があるのかどうかはまだよくわからないところである。
しかしやはり『西洋哲学史』を読んでいると、例えば今日読んでいたオリゲネスなどは、青年のころにキリスト教の教えに忠実であるために自らを去勢するという、宗教への人生かけっぷりであり、彼が十代でクレメンスの後をついてアレクサンドリアのキリスト教学校を主宰し、最後には殉教して歴史に名を残しているところを見ると、(論理的には「だから」とは言えないものの)やはりこういう形で哲学・思想史に名を残すことと僕の願っていることをどれだけ実現しているかということは相関があるのではないかという気がしてくる。
実際、オリゲネスの理論はその前提からして受け入れがたいものの(彼の目指したのはギリシャ哲学とキリスト教を受けそれを前提としたグノーシスとピスティスの立場の調停・綜合である)、彼の求めていたなんらかのものは、記述を見る限り、かなり共感が持てるものであるような印象を受ける。
しかしだからと言って、宗教・哲学界の偉人に対して、その名誉からして彼らにルサンチマンを抱き、例えば「無名の人間の方が偉大なのだ」などと言うことは、間違った・ねじまがったことだろう。

しかし、調子や気分がよくなってくると虚無感も薄れるのだが、やはりそれは自分の心の底に底流しており、意識するとわきあがってくる。
それは虚無感と言うよりも、人生への不満とか自己への不満と言った方が適切なのかもしれない。
やるべきことがないとか、理想がないとか、なにか漠然と願うものが存在していてもそれに向かっていける道がはっきりしないとかいうことが理由なのかもしれない。
なにもかもが人生において二次的・副次的なものであり、決定的ななにかが決定的に欠けている感じがし、絶望的で救いがないような思いに駆られる。

そういえば、生きる意味を見出すために、先日Amazonでロゴセラピー関連の僕の知る限り唯一のセルフヘルプ本であるMeaning-centerd therapy workbookを見ていて、自習用のものはKindle版しかなく、セラピスト用の参考資料だけが紙媒体で出ているようだったので、自分は電子書籍に慣れていないためためらっていたが、中身を試し読みしてみると、Kindle版しかない方はむしろフランクルの理論解説に終始しており、紙媒体のものにセッションや具体的なセラピーについて書いてあり、個人でのセルフヘルプ的使用にも耐えるようだった。そのうち入手して、自習に使うかもしれない。

前回の「なぜみんなが数学を勉強する必要があるのか」に関しては、デイケアのスタッフさんは、「結局できる人だけが活躍するのだけど、とりあえずみんなにやらせて様子を見るのだ」というような意見をしていた。
おそらくこの意見から行くと、数学などができなかった人は「科学技術発展のためのトレーニングの失敗例」「強制的・義務的に参加させられる競争における補欠」ということになるのだろう。
これはある意味、哲学の話でいくならば理性の狡知による淘汰と排除の話に近いのかもしれないが、この場合、自分の存在の意味や位置づけは説明されるかもしれないにせよ、本人にとっては残酷ではある。
実際には、本来は義務教育・教養教育の理念はそのような実用性・実践性と社会発展のみを基準にしたものではなく、そこではむしろ知が人格の完成に資するある意味自己目的的に追究されるべきものとして捉えられているだろう。

またそのスタッフさんは、自分の悩みに関して、「結局自分が納得のいく人生の意味が見つかれば満足なのだろう。それは、普遍的な(誰にでもあてはまり妥当する)人生の意味で、みんながそれを理解していなくても自分がそれを知ることが大事なのだろう」というようなことを言った。
確かにある意味そうなのだが、このようなある意味独りよがりで独善的な、最終的に「みんなわかってないけど自分は真実を知っている」というところに帰着するようなもので満足がいくのかはよくわからないところでもある。
そもそも最近はそういうプラトニズム的真理観を解体しようともしていたはずだが、しかしやはり、「自己による生きる意味の創造」というのは別の意味で独りよがりの、不確かなものの絶対化のようにも思われてしまう。
自己の根源からその創造される価値を引き出してくることはいかにして可能なのだろうか。

本に挟んであった岩波書店のしおりに次のようなことが書いてあった。
「…正しい答えは、ないかもしれません。けれど、その「ないかもしれない正解」を問い続ける姿勢が大切だと私たちは考えます。問う。すべてはそこからはじまります。
人は、本を読むことで思考を広げられます。新しい自分や世界に出会う喜びがあります。そして少し階段をのぼったとき、また新たな問いが生まれる。
私たちの本が、そんな限りない成長の扉となるように。これからも岩波書店は、問う大切さを知る読者、著者と共に、希望ある時代を社会を追い求めていきます」。
確かにその通りであって、哲学の姿勢とは、ある答えに満足・安住せず、常に対立するなんらかを把握し理解しがら問いを継続していくことだろう。

上記スタッフさんは、「だいちちゃんは、「なんでこんなに悩まないかんねん」とか思って悩むのやめようとはおもわへんの?」と聞いてきた。
しかし、「こんなに悩んでも仕方がないからやめる」ということにはならない、というのは、僕の場合、別に努力して食らいつくとかではなく、なぜか自然にそうである。
どちらかと言うと、僕にはそれは主体の意思決定と言うよりもむしろ人生の構造、そのある種悲劇的な、問題含みの構造自体に由来するようにも思われる。

(もしそれが統合失調症的妄想だとした場合、病識がなく妄想と一体化しているということにはなるだろう。
ただ、それを妄想だと言い切れる根拠や、そう言うときにその人が立っている地盤は、それ自体問い直されるべきだとも思われるし、ある意味、仏教の立場から見たら、人生を苦しみと考えることを否定する彼らの考えの方が妄想ではある。)

ただ、それによって実生活に支障がある面もないわけではないので(というかおおありかもなので)、別にその悩みをうまく遂行する能力があるわけではない以上、ある意味バカな生き方ではあるのだが、まあ、ある意味この生き方が「内的必然」「必然的自由」とも言えるような気もしなくもない。

そういえばデイケアで知り合った友人に登山に誘われたが、友人はその登山の仲間に自分が統合失調症だと知られたくないようで、僕との関係などにその仲間に突っ込まれた場合にどうごまかすかについていい案が出なかったので、結局、友人の病気がばれる流れになる危険を避けるために僕は参加を見送った。
ある意味これはスティグマ・セルフスティグマに由来する障害者排除の構造にからめとられて排除されている(もしくは自己を自発的に排除している)と言えるだろうが、最近は先日の警官の銃を統合失調症患者が奪った事件の影響もありますますわれわれの生存環境が過酷になってきているだろうから、それもある程度踏まえつつ、そういった構造自体についても思考をめぐらせつつ、自らの願いを実現するために生きていきたいと思う。


<S氏とのやり取り記録(前回6/18の日記へのコメントより)>



数学学習の比喩はすとんと落ちるところがありました。人生の場合だと教師にあたるものは、両親や社会の推奨する人生観、あるいは宗教になるでしょうか。それに盲従することが解決にならないのはやはり人生の意味を満たすには足りない相対的なものだからなのでしょう。最後に挙げられた解決法として「解答(意味)が与えられる」ではなく「解答を与える」と示されていた点が印象的です。久松的に言えばそこで人生は客観の問題でなしに主体の問題と捉え返されていること人ある。

しかしそのためには世間などによってあらかじめ用意された解答を「ずらす」必要がある。構造を見通してその相対性を十全に認識する必要がある。「ずらし」が最終的な解答に代わるものではない、というのはその通りで、古代懐疑主義が示したように、あくまでアタラクシアという最終目標に到達するための手段と見られるべきでしょう。つまり「解答」を与えるためにはまずは与えられる相対的な解答を拒絶しなければならない。そこにこそ人生の意味の答えが主体的なものとして開かれてくる、と考えてよいでしょうか(これはある意味で今回の記事に対するヘーゲル『精神現象学』な解釈であります)。



だいち

コメントありがとうございます。
そうですね、人生における「教員」は外部から与えられる価値としてさまざまに考えられると思いますが、例えばそのようなものだと思います。
伝統的宗教の指し示すものが「人生の意味を満たすには足りない相対的なもの」と言い切れるかはまだ判断しかねますが、なんにせよ盲従では解決にはならないのは確かだと思います。
実は先の日記を書いた後で、その、回答は主体的に与えられるべきものであるということは前提していたことに気が付きました。
数学学習の喩えにおける「現代日本の教育構造」は、人生問題においては「プラトニズム的真理としての世界の解釈」に当たるかもしれませんが、その教育思想も含め、おしなべてそれらが「教師によって与えられたもの」だとしたならば、確かに、最終的には意味は主体が主体的に与えるものとなっていくのかもしれません。
そしてそうだとしたら、その、(比喩として言うなら)ある主体としての文科省職員とか偉い教育思想家の作り出した環境としてのあらかじめ用意された勉強の意味を、それ自体相対的なものとして理解することは助けになるようにも思います。
しかし確かに、それがそれ自体として解答になるわけではない。われわれは、人生においてある環境や物語に巻き込まれているが、それを頭で相対化し解体したところでやはりあくまでもそこに巻き込まれ続けている存在である。
これは比喩で行くなら、数学を勉強しなくてはならない環境の相対性を理解してもその環境それ自体からは抜け出せないということを意味するでしょう。
この自己は社会環境・文化環境に抜け出しがたく巻き込まれているし、またその環境の影響、今までその中で生きてきた経験は身体化され、その痕跡は身体性の奥底まで埋め込まれている。
その中で主体的な人生の意味の解を創造するというのは果たしてなにを意味するのでしょうか。
アタラクシアと言ったときも、この言葉からはどこか、あらゆる欲やそれに伴うさまざまな意味から解放されて平静に安らっている印象を受けますが、意味を創造することとこういった境地とはどこか齟齬があるようにも感じられます。
身体化された文化から抜け出すことは容易にはできないということは、生という営みから抜け出すことが生きている以上あまりに困難であるということと同期します。
結局は、「ずらし」、つまり思考や行による意味の揺さぶりと、身体や社会に埋め込まれた解答の圧力による押し戻し、それによる揺れ戻しのせめぎ合いの中で、バランスを取りながら生きて行為するというのが、現実の具体的な人間の有様なのではないでしょうか。
個人的にはそれでは納得のいかない面もあります。というか、それでは僕は人生に納得がいきません。しかし、それ以上になにかすること、特に「すべての意味を完全に相対化した上で自己による意味の創造を完遂する」ということがはたして可能なのかと問うとき、あまり芳しい答えを与えられる気が、今はしません。





相対化は価値創造の準備作業となる、ということは認めるとして、それによって実践的な生活を「ずらす」ことの可能性には懐疑的だ、ということだろうと思います。「身体化された文化から抜け出すことは容易にはできないということは、生という営みから抜け出すことが生きている以上あまりに困難であるということと同期」するという指摘は非常に重要なところだと思います。

しかしここは逆に考えてみましょう。相対化は価値創造の準備であるが、抽象的ニヒルにとどまることはできず、それでも生を遂行しなければならない以上、なにかの価値を選択する必要があるのは当然です。しかしながら、現代の日本社会においてなんらかの特定の規範を、われわれにおいて身体化・習慣化され「第二の自然」となっているところの、われわれが生きる「ある環境や物語」としてみなすことはできるのでしょうか。現代日本社会的ニヒリズムでは、既存の価値観は理論的にも実践的にも、それ自体としてはわれわれが望むと望まないとにかかわらず、すでに流動化され、すでに相対化されてしまっているのではないでしょうか。つまり、ある特定の物語を特権化すること自体が、大きな懐疑が支配するこの時代の流れに耐えられなくなっていっている。だから「すべての意味を完全に相対化した上で自己による意味の創造を完遂する」ということは、不可能なのかと問われる前に、むしろ現代に生きるわれわれに不可避な課題として突きつけられているのではないかと考えることもできるわけです。

そもそも文化そのものが、すでにつねにそうした可塑性によって「ずれ」ている。だとしたら、そうした「ずらし」を拒んでいるのはわれわれ自身であり、「ずらし」を「ずらし」として受け取れなくなっている。それこそわれわれが直面する、われわれ自身に内的な課題なのです。「ずらす」ことはしたがって文化の「ずらし」を受け入れることです(遊戯三昧とはそういうことだろうと理解しています)。だからそこで創出される価値がこれまでのものとは全く別のものでも、あるいはもしかしたら重なるものである可能性もある。現行的だと思われる価値を必然的なものとしてつかみ、社会の中で堂々と生きることもできる。それは哲学者たちがこれまで「必然的自由」として理解してきたものであり、それこそ静的に理解されがちな「アタラクシア」の真意(久松の言う平常心、つまりただ無常においてのみ獲得される常)なのでしょう。



だいち

ありがとうございます。確かにその通りです。
われわれはそもそもすでに価値相対化の進行した社会に住んでいます。中学校の正規課程の環境では数学の勉強は強いられますが、現代は「明るい不登校」「前向きな登校拒否」が認められ主張される社会でもあるし、より一般にも、共有された物語は、その概形をぼんやりととどめながら、またその姿を変化させながら、すでにぼやかされ、ある意味で解体されていっています。
その意味では、理論的には、「哲学の課題がずらす作業の遂行である」と言うより、むしろ「哲学の課題はずれていく世界の受容である」と言ってもいいのかもしれません。それ以上に、確かにそれこそが、専門的哲学の枠すら超えた、現代に突きつけられている不可避の課題とも言えるのかもしれません。

しかし、それでも、僕自身の実感として、この身体・身心態の内に、もはや可塑性を失いかけている、埋め込まれた慣習・習慣を感じるのも確かです。
それは必ずしも直接に「第二の自然」としての文化それ自体との必然的因果関係を持っていなくても、その文化の中で僕という個人が身に付けてきたもの・身に付けられなかったもの一般であり、より具体的に言えば、例えば対人不安であり、偏った能力や病気であり、学んできた思考の型であり、さらに(もし完全な絶望とは異なっていたとしても)僕が虚無感と表現する感覚であり、そして生きる意味への欲望それ自体です。
そう考えてみても、例えば「必然的自由」と言うときにも、その創出され、もしくは選択される価値の、自己にとっての必然性の根拠はなんなのかと考えたとき、その基盤は結局そのような、(ずれた前にせよ後にせよ)なにに由来するかよくわからないあるひとつの価値のあり方に求められることになるのではないでしょうか。そうでなければその価値は根本的にはどこに由来すると言えるのでしょうか。

それと同時に、価値の相対化を考えるときでさえ、生の基礎的条件として見逃してはならないものがあると思います。それは、ある種の価値を創造・選択して生きる際にも、必然的に人間が経験するであろう受苦一般です。
アタラクシアを生きようとするときでさえ、人間の受苦という端的な事実はおそらく消すことができないのではないかとも思われます。
すべての生の意味や価値の思索は、この前提を十分に真剣で深刻な眼差しで見つめた上でなされるべきなのではないかとさえ思われます。
遊戯三昧や平常心、アタラクシアの立場からは人間の直面する限界状況の問題にどのように回答できるのでしょうか。

今日藤田正勝の本を読んでいたところ、東洋の哲学は西洋のものとは異なり、知の枠組みを前提としてその中で事柄を把握するのではなく、むしろ知をひとつの制限と捉え、その根底に、知以前の場に、つまりは(あえてこの表現で繰り返すなら)「生の根源」に帰りゆこうとする傾向があると書いてありました。
もし僕自身の、(こう言ってよいなら)宗教的要求がそういったことによって満たされるとしたならば、それは西洋的知の立場からいかにして可能なのかということは、(これ自体相対化されえる話かもしれないとはいえ)やはりまだ僕の中ではっきりとしていません。





根源的な価値の由来は結局のところ「自己」ということになるのだろうと思います(私はずっと久松的に語っています)。アタラクシアにおいても存在する受苦、というのは平常心における無常の常における無常ということでしょう。平常心の常は無常の乗り越えにのみ存しているわけですから。

しかしたしかにそれが現実の実相であるとはわれわれ凡夫からすれば理解しがたいところが残りますね。もし、「必然的に人間が経験するであろう受苦一般」ないし「人間の受苦という端的な事実」を「十分に真剣で深刻な眼差しで見つめた上で」探求を行いたい、というだいちさんのお気持ちは理解できました。問題はしかしその先だと思います。人間の受苦に立脚することで、そこからどのような宗教哲学の道筋が見えてくるのでしょうか。目指すべきはアタラクシアでないとすれば、その先には何が期待できるのでしょうか。「生の根源」は受苦である、とショーペンハウアー風に言い切ってもいいかもしれませんが、その先に見え隠れする反出生主義の禍は、私は避けるべきだと考えています。なので「十分に真剣で深刻な眼差し」によって問題を硬直させる仕方は取りたくないわけですが、もしだいちさんのお考えがあればお聞かせ願いたいです。

一言で言えば、生の受苦なるものを根源化することによって、生への肯定的な意味付けは生まれるのだろうか、という問いになるかと思います。



だいち

確かに自分は凡夫の立場・視点から、凡夫に見える限り・思われる限りのことを語っています。受苦までをも根源化する必要はありません。もしそれが相対化を介した価値の創造によって撥無されえるならばそれは願ったりであるところです。
そして、Sさんのご意見は、その、自己の根源からの、苦と無常のなんらかの意味での乗り越え、そして受苦とは異なるものとしてのアタラクシアや無常ではないものとしての平常心の達成・実現・到達が、宗教哲学を通して可能だというものだと理解しました。
もしそうであるならば、それ自体は自分自身もそうであってほしいと願うところですし、Sさん自身その希望を宗教哲学の営みに見出し、それをいくらかの程度実現しているのだとしたなら、ぜひ自分もその乗り越えの営みに参与したいと心から希望します。
実は最近廃棄することになっていた雑誌の方、40冊近く、いただいてきました。それも含めて、また考えながらいろいろ試みてみたいと思います。ありがとうございます。





受苦の事実を真摯に受け止めることはたしかに必要だろうと思います。平常心やアタラクシアの議論は、それが苦の乗り越え、苦における笑いにあるかぎりで、受苦的事実と矛盾するわけではない。が、しかし問題は受苦的事実を前にしてそれを「ずらす」ことの困難さである、とだいちさんのお考えを理解しました。ひたすら避けることではなく、受苦的事実を向き合うことで根源への道が開けるのか。それこそまさに思索という営みが持ちうる真摯さでありましょう。

ところで受苦的人間の宗教哲学、というと杉村先生のリクール本のテーマですね。そこから長谷先生を経て武内義範、さらには田辺元へと連なる宗教哲学の系譜は、西田‐西谷‐上田ライン(わりと飛び越えてしまう)とは別の努力があると思います。そのあたりを見ていくのも実りがあるかもしれませんね。また一緒に考えていきましょう。



だいち

その通りだと思います。
受苦の現実はそれこそ生に深く根差したものであり、乗り越え不可能とは言わないまでも限りなく困難である。
そこは思索という営み、宗教哲学という一種の行為のポテンシャルが試されるひとつの場だと思います。

実際、受苦という言葉を使ったとき、先生のリクールの解釈を意識しました。
そうなんですね。確かにそう言われてみれば、その二つのラインはおっしゃる意味においては異質なものがあるようにも思います。

丁寧なコメントとお返事ありがとうございました。またよろしくお願いします。