今日もかなり不調であり、デイケアでも常に苦痛で、帰ってからはずっと四つんばいになって頭を抱えたり、叫んだり、机や床を叩いたりといったことを繰り返しているが、近所迷惑が心配になるところではある。
昨日は夜ごろ斎藤環が川崎事件関連で「ひきこもりは非常に犯罪率が低い集団としか言いようがない」といった意見を述べているのを見て、Twitterでも公認心理士の人が「引きこもってる人より引きこもってない人の方が1000倍ぐらい犯罪犯すわけだから、引きこもってない人達は犯罪予備軍だと言えるし、引きこもりは犯罪抑止因子と言ってもいい」と言っていたし、これはほんとなのかと思って、「総務省統計局 労働力調査(基本集計)平成29年(2017年)平均(速報)結果の要約」の21ページと「平成29年の犯罪統計 罪種別犯行時の職業別検挙人員」を参照して失業者と労働者の犯罪率を比較してみたのだが、(計算が間違っているのかもしれないのだが)そのような結果が得られなかった。
今日はデイケアでとある超プラス思考なスタッフさんによる「お悩みズバリ解決コーナー」というのが流れで催されたので、僕も参加して、紙に「虚しい」「苦しい」と書いた。
すると、「どんなに険わしい道でも笑いながら歩こうぜ!!〔原文ママ〕」と返ってきた。
確かに一理ある話だと思った。僕は苦しくても希望を持ち続けることは意識していたが、笑顔でいるとか、いつでも・どんなときも微笑みを忘れないとか、そういったことができないというか、そもそもできないからなのかわからないがいつの間にか発想から消えていた。
それで、帰ってから似たような発想の本を読むことにした。具体的には、おととしこちらに引っ越してくるときだったか、友人にもらった『松岡修造の人生を強く生きる83の言葉 弱い自分に負けないために』である。
「不平・不満はポイズンだ!」「緊張してきた。よっしゃあー!」「苦しいか?修造!笑え!」「崖っぷちありがとう!最高だ!」「偶然やラッキーなどない。つかんだのはおまえだ!」など、ウルトラプラス思考な言葉が列挙してあるが、その中に次のようなふたつの節があった。それは、「諦めんなよ!どうしてそこでやめんだよ!」というものと、「答えは自分の中に全部ある」というものである。両者の節から一部引用する。
「…『諦めんなよ!』は、他人から言ってもらうというよりも自分で自分に言わなければいけません。誰でも何かにトライして失敗すると、「諦め」という文字がチラツキます。その言葉に引き込まれないように、何度も『諦めんなよ!』と言いましょう」(上掲書、p.129)。
「…その人の中から出てくる迷いや悩みの答えを、他の人が出すことはできません。
本人がどうしたいのか、本当のところ他人には分からないからです。そんなときに「なぜ?」「どうして?」と自分に問いかけていくと、必ず自分の中に答えが出ます。間違いなく出ます。そうやって質問を重ねていくと、実はたいした問題でないこともよくあります」(同上、p.101)。
これ以上反省的に自分に問いかけさせるのか、とも思ったものの、確かに、人生を諦めて自殺することがほんとうに自分のしたいことなのか、と自分に問い詰めると、確かにそうではないと感じる。
僕はニヒリズムをなんらかの形で超えて、人生に希望を見出してから死にたいと思っている。
もしそうだとしたならば、修造的な感じでどんなに苦しくても諦めず最後までやり抜くべきなのかもしれない。
ただ、そう思って、「よし最後までニヒリズムと戦い抜くぞ」と意気込んだのが夕方ごろなのだが、それからすぐに希死念慮と苦悩の渦にのまれて「死にたい死にたい」などとうめきながら布団を叩いたり枕で口を押えて叫んだりするわけだから、一瞬意気込んでもそう持続するわけでもないというのも確かではある。
また、このあまりに険しい道で笑顔でい続けるというのもある意味拷問でもある。
ただ、それとは別にもう一つ本を読んだ。こちらは父のくれた本で、『神谷美恵子 ハンセン病と歩んだ命の道程』(大谷美和子、くもん出版、2012)というものである。
神谷美恵子さんの本は、『生きがいについて』などは割と愛読書だし、結構尊敬する偉人でもある。(そういえば今日はデイケアでフランクルの『夜と霧』をずっと手元に置いていたが、こういったものをどれだけ読み込んでも生きる意味がわからないというのも問題ではある。)
最初に東日本大震災の話があり、割と最近出た本なのだと知った。オープニングの部分を読んで、それもなかなかよかったのだが、とりあえず最後の方に飛んでぱらぱらめくっていると、黄色い蛍光ペンで線が引いてある部分を見つけた。
神谷美恵子の晩年のセリフで、以下の部分の内『』でかこった部分が黄線の部分である。
「この小説、おもしろかったわよ。永子さん、読むのならもってらっしゃい。『わたしもほんとうは小説が書きたいの』。頭のなかにはもうできあがっていてね、あとは原稿用紙に書くだけなんだけど」(上掲書、p.160)。
僕も結構自分が共感したところに鉛筆で線を引きまくるタイプなのだが、自分なら絶対ここには引かない。なぜここに黄線が引かれているのかは容易にわかる。それは、父が小説書きになりたかったからである。
普段から父は子には子自身が望むことをさせたいと考えて、寛容に、子の自由にさせている。しかし、父自身は小説家にはなれず(ならず)にサラリーマンを貫いて子のための経済的基盤を整備した。
そう考えると、自分がやりたいことを見つけることもできず、むしろ人生の意味を見失ってそれを見出すことに奔走しているというのは不覚でもあるかもしれない。
とはいえ、僕自身も病弱な中でなんとかしようとがんばっているのも確かではある。なんともならない状況ではあるが、それを考えても、今諦めるというのはやはり選択としては間違っている感も否めない。
それとは別に、先ほど、先日「恵まれた境遇で死にたいだなんて失礼だ」と言ってきた心疾患の友人から謝罪のLINEがあった。なんとずっと心配してくれていて、自分のブログを(眼が悪い状況なのに)見てくれているのである。
こちらも感謝・謝罪して、こちらも理解できなくてごめんなさいと言っておいたのだが、丁寧で思いやりのある文面であり、結局理解し合えないということが悲しいことだと感じた。
今日は結局昼ご飯はデイケアで食べ、夕飯は400円に抑え、あと350円使ったので、今のままなら250円寄付に回せる計算になる。
負の感情がたまっていくばかりではあるが、寄付貯金によって虚無感が軽減すればとも思いはする。ある意味身を削るような話なのでストレスにもなる気もするが。
とりあえずまったく勉強ができていないので、研究は絶望的ではある。
松岡修造ならこっからの気合を見せるのかもしれないが、自分的には気合をどこから引き出したらいいのかわからない感じである。
哲学に希望を見出すためには哲学史を勉強するしかないのか。あの作業に耐えた先になにかあるのか。この道に入った以上はやるべきなのだろうが、ここまで気分が悪いとまったく読むことができず苦痛でしかない。
少し様子を見ることにした方がよいのかもしれないし、むしろ今はそれしかできない。