過去を振り返る
子どもの頃から、私は少し変わった子だった。
それは本人も家族や家族のように近しい人達も認識している。
幼い頃、周囲に友達が居なかったのかと聞かれれば、それなりに仲良しのコミュニティもあったし、自分でいうのも可笑しな話だが、俗にいう『中心グループの中の1人』という感じで、同世代の子がするような遊びもたくさんしてきたと思う。
ただなんとなく違和感というか、ズレというか…
自分がその場に収まっていないような気持ち悪さが常につきまとっていた。
この【気持ち悪さ】を深く考えるにあたり、私の持つ困った癖の1つを再認識した上で、何故人と関わる際に違和感を覚えるのか突き詰めていきたいと思う。
この困った癖とは、【人を観る】ということ。
その人と仲良くなる為によく知りたくてというよりは、無意識的に行っている癖のようなものだと思う。
子どもの頃は親族や関わりのある人の死期を察知したり、怪我や病気を言い当てたりするような気持ち悪い子でもあった。
これは私にスピリチュアルな能力があるという話ではなく、多分呼吸音や温度、匂いや目線の動き、行動の機微等、その人から発される様々な情報を制限なく受け取り続けている為だったのではないかと思う。
虫の知らせを取りこぼしなく受け取れる子といった感じだろうか。
そのせいで私の小さな脳ミソは絶えず働かされており、小学校高学年になるまでは、あまりに寝過ぎる為、母が過眠症ではないかと心配し受診を検討するほどだった。
高学年の頃になると、この五感から入ってくる大量の情報を本能的にシャットアウトする為なのか、大量の本を読み始める。
当時流行っていたハリー・ポッターなどの児童文学を始め、到底子どもが好まないようなミステリーや純文学、図書室の本を全て読みつくし、母に買ってもらった本も1日足らずで読んでしまうと、いよいよ読むものが無くなり、最後は家に常備されていた家庭の医学という凶器にもなりそうな程の厚さがある本にまで手を出した。
この頃母からは『本の読みすぎだ』という、小学生からしたらあまり聞き馴染みの無い怒られ方をしたのを覚えている。
ただそれでも活字を追うことを辞めなかった。
何故ならそこにブレやズレや違和感がないから。
気持ちが予想通りにしか揺れないという感覚がとても心地良かったのだと思う。
大人の自分が子どもの自分を振り返るというのは、とても体力がいる作業のようだ。
今日は疲れたのでこの辺にしておこうと思う。
また気が向いた時に…