私の四番目の子の星子は、まさに「こんな子供は他にいるもんじゃない」という思いに
ぴったりの子です。このような星子にひっぱられて、星子を育てているこの私も、
世界でたった一人なのだという感じが如実にしてきます。それは誇りや安定感を形成し、
確実に生きていく甲斐やよろこびを与えてくれます。 「星子が居る」より
ぼくが重度の障害者の子をもったなら、
ぼくも、この子もなんと不幸なのかと、きっと呪うか、
それを抑え込んだにしても、げっぷの様に呪いの言葉が口からいつまでも、出るような気がする。
まして、自分が重度の障害者として万一生まれてきたとしたら、
これでいいのだ、と言うことができるのに、一生かかってしまうのではないだろうか。
最首悟はこの本でそのようなことにあまりふれていないけれども、
この子は世界でたった一人の子なんだ、自分もそうなんだと素直に思うのに
きっと深く、深く考えたに違いない。
いや現実から考えることを迫られたであろう、とぼくは思う。
考えなければ安定した誇りのある、毎日の生活ができないからである。
ぼくらは、そんなことをあんまり真剣に考えなくとも生きられる。
才能も、健康も、財産も地位も恵まれている人は、
なおさら、現実の生活から要求されることはない。
ぼくらの多くは現実に迫られなければ、普通見ようとも聴こうともしないからだ。
障害者でないけれども、ぼくらも多様な存在として、毎日の生活を送っている。
ぼくはやはり、最首悟とは違うので、
自分が世界でただ一人の存在である、とは実感できない。
そして、障害者に対しても、アルツハイマーの母に対しても、世界でただ一人の存在だよ、
とやさしく言うことができないのがぼくの現状である。
何故そうなのか、自分にもよくわからない。
昨日(12日)は暖かい春の日で梅園へ施設の人と行ってきました。