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経過の長い病気を

長年わずらっていると

 

どうしても、病苦のみならず

病気にまつわるさまざまなイヤなことも引き受けざるを得なくてね

 

その結果

ひとりでひっそり暮らすことになってんけど

 

さまざまなイヤなこととは

ひと言でいえば「差別」という問題で

 

これは、どんなに気をつけていても

いきなり受けざるを得なくなることがあるの。

 

でね、それに対処して

きのうはあれこれ大変やってんけど

 

そのあれこれをみていたひとが

わたくしの態度に違和感をおぼえられたのか

 

あるいは、慰めようとしてくれたのか

 

そんなのは

ほんのひと握りのひとの問題

 

ひじょうに稀なケースだよ と

わざわざ声をかけてくれたのね。

 

……ちがうのよねえ

差別とは、ひとの心持ちの問題だけではなく

 

社会構造に組み込まれている問題でもあるのよね。

 

たとえば、障碍者差別とは

『古事記』の天地創造の時からある問題で

 

たしか、イザナギノミコトとイザナミノミコトが

まぐわって、はじめに出来た子供は

 

足腰の立たない「ヒルコ」やったの。

 

女神であるイザナミが、男神であるイザナギを誘ったから

儀式の順序がちがって

 

生まれた子供が障害児になったのね。

 

それで、二人の神々は

この子を水に流して、あらたに生みなおすんやけど

 

日本は天地創造の時から

障碍児を親が殺していたのよ。

 

でね、現代では

たとえば高度成長期

 

サラリーマンのように

能力が一定程度揃っている人間たちが必要とされたので

 

学校制度も、それに沿って

一斉授業にのることのできない

 

いわゆる障害児は就学猶予・免除されて

教育を受ける機会を奪われたり

 

分けられて、養護学校

いまでいう特別支援学校に入れられたのね。

 

そして、人里離れた山間部につくられた

「しあわせのさと」とか名付けられたコロニーに

 

隔離して、一生を終えるように

日本政府はデザインしようとしたのよ。

 

その流れはいまも続いているんやけど

 

同質性を求めた

能力主義の貫徹への国家的な意志が

 

日本の障碍者差別を

社会構造の側から支えているの。

 

だから、障碍者差別は

ひとびとの心のもちようだけでは解決できない問題なのね。

 

それで、その波を

ひっそりと暮らしている病気のわたくしも

 

ときどきかぶることがあるの。

 

まあね、病気をして長いから

幾度もそんなことがあったけれども

 

慣れないわね。

衝撃よね。

 

きのうはなんとか打つテを打って

あとはねむってしまったけれども

 

……そういうときは、ふと

V=E=フランクルさんの

 

『それでも人生にイエスと言う』という

本のタイトルをつぶやいたりしてるの。

 

フランクルさんは

『夜と霧』という本で有名な

 

ナチスのユダヤ人強制収容所からの

生還者でいらした、心理学者でもある精神科医やけど

 

極限状況を超えた収容所で

何年も生き延びて

 

生還されて

……収容所で生きる望みであった奥さんの死を知らされても

 

社会復帰されて

精神科医として働き

 

二度目の奥さんをあらたに得て

人生を全うされたのよね。

 

あんな状況を生き延び

受けた傷も深かろう過酷な人生を歩まれた方と比べれば

 

わたくしの人生など

語るほどの苦難もない

 

あの方に倣って

それでも人生にイエスと言おうではないか

 

そんなことを思ったりするの。

 

 

 

よきお暮らしを