1/80のご遺族のひとことから | 南ニ死ニサウナ人アレバ

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行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ。
病床の宮沢賢治は 経験したことのない死を
怖がらなくてもいいと なぜ思えたのだろう
老い先短い人が 目のまえで答を求めていたら
サウイフ医者ニ ワタシモナリタイ。

10年前、私があるホスピスで病棟医長をしていた時のことです。

 

国内ではじめて、終末期医療や死別のあり方を各々の遺族が振り返る、大規模な遺族調査が行われました。

がんの終末期医療において、現場はどのくらい良いことをしているのか?を客観視するための画期的な調査で、私たちのホスピスも参加しました。

調査の内容や結果については、ホスピス財団のホームページに詳しくまとまっています(注1)。

 

世界保健機関は、緩和ケアを「患者さんや家族のクオリティオブライフを良くする取り組み」だと定めています(注2)。

平たくいえば、なるべく良い時間になるように、良い1日になるように支援しなさい、ということでしょうか。

しかし、「それができているかどうか」 いつ誰にどう訊いたらハッキリするのか。むずかしいのはその物差しです。「患者さん本人に訊けばいい」ー当たり前の考えかたですが、死が間近にせまった人は目覚める、考えるなどの脳機能が下がっているので、リアルタイムで答をもらうことができません。

次善の策として、亡くなった人を近くで看ていた遺族の方から「どんな死別だったか?」を訊かせてもらうことになる訳です。

 

調査が終わりました。私は自分が主治医として診療し、入院のまま亡くなった80人の患者さんについて、その遺族の方からの「総合評価」を受け取ることとなりました。もちろん私個人の得点票ではなく、ホスピス全体が受けた評価ではありましたが、封を切る心境は、まさに手応えの不確かなテストの答案を返されるときのようでした。

採点結果はといえば、ホスピスとして真摯に受け止めるべきほとんどの項目において、私のホスピスはなかなかの点数をもらうことができていました。

そのときの私の安堵は、想像に難くないことと思います。

 

子になった「総合評価」とは別に、バラの紙が数枚出てきました。手書きの文面をそのままコピーしたA4の紙は、質問の一番最後で、何人かの遺族の方が自由記載欄に書き込んだ「生の声」でした。

 

たしか3-4人分くらいしかなかった「生の声」は、やはり感謝の言葉や肯定的な思い出話がほとんどでした。たったひとつを除いて。

亡くなった方の姪御さんと名乗る方がそこに書き込んだ文面を、私は今でも憶えています。

 

“ホスピスというのは、ずいぶんと命を粗末にするところだな、と感じました”

”少なくとも私には、転院前にお世話になっていた脳外科病棟の人たちの方が、よほど本人のために心を砕いていたと感じられます。ホスピスでは「どうせ亡くなる人だから」と思われているような気がしてなりませんでした。”

 

もし今、私がその言葉を憶えていることを取り上げて、「ちいさい声に耳をかたむけてエライだろー」なんていう論旨に持っていけるなら、まだ気が楽だったろうと思います。そうではなく、私は多分その言葉を、忘れたいけど忘れられないのです。

 

「書いたのは姪御さんでキーパーソン(注3)じゃない。たまにしか来なかった人かも知れない」とか、「同じサービスを提供しても、評価が分かれるのは仕方がないことなんだ」とか、「ちいさい不満を見過ごさない体制づくりに活かせれば、それでいいじゃないか」とか。ときどき、頭の中に彼女の言葉がこびりついていることに気づいては、私は尤もらしい落としどころを見つけ、バランスを取ってきたように思います。

 

和ケアの専門家を名乗って13年がたち、ホスピスに居たはじめの5年以降、私はさまざまな現場で緩和ケアの意義を再確認してきました。

化学療法室で、副反応や今後への不安と闘いながら抗がん治療を受ける方、「これ以上抗がん治療を続けられない」と、まさに今日言い渡された方、データは問題ないからと、寝起きもままならないのに独居のアパートへ無策で帰される方、「どんなに症状で困ってもここがいい」と自宅で煙草を喫う方。やはり緩和ケアは終末期だけのものでなく、ホスピスだけのものではありませんでした。

 

そうやって今、やはりあの日の言葉を思い出すとき、それは前とちがう色合いで、あるヒントを教えてくれるようになりました。

 

ホスピスの、もっと言えば緩和ケアの最大の敵は、パターン化ではないだろうか?

 

緩和ケアは、専門化しキュア(注4)に傾きすぎる従来の医療への反省から始まっているとも言えます。いきおい、専門化した医療や頑張らせすぎる医療を批判する姿勢になりがちです。

「あの病院は、どうしてそんなにギリギリまで頑張らせちゃうの?」ーホスピスのスタッフからよく聞く声です。

確かにそうかも知れない。でもその考えかたからは、なにか大事なことが抜け落ちているのではないだろうか?

どのような病気の人も、みんな初めは頑張って治すために医療を求めるのに。

 

いま、国の施策も医療費削減と相まって、見込みの薄い人への専門医療が行き過ぎないようブレーキをかける方向にみえます。やってくる超高齢化社会で国民の死に場所を確保するために、在宅や施設で総合診療や看取りをおこなう受け皿を増やすことに躍起です。

受け皿となる医療者介護者は、国のうしろ盾を得てかんたんに

「頑張ることは正しくない」という答を、患者さんより先に用意してしまう危険があります。

そして、あのとき批判を受けた私のホスピスもまさに、その最右翼にいたはずです。

 

死にゆく人を何度もみている我々医療者が、初めにすべきことは何だろうか?

その局面でなお頑張ることを初めから不毛だと教えてあげることでしょうか?

私は

頑張ることや頑張らないことの意味を一緒に考えることではないか?と思うのです。

意味があるかないかのこたえは、一回勝負の時間を進んでいくしかない本人のもののはずです。

 

はこれから、埼玉県朝霞市であたらしいホスピスを始めます。しかしホスピスは、緩和ケアのひとつの形に過ぎません。

パターン化を克服していけるような、パターンからこぼれ落ちる人が困らないような、緩和ケアの全体的な体制づくりができないだろうか?-長くそう思い続けてきました。

いま私は、そんな地味だけどあたらしい緩和ケアづくりに燃えています。

 

 

(注1) https://www.hospat.org/practice_substance1-top

(注2) http://www.who.int/cancer/palliative/definition/en/

(注3) 本人以外で説明と同意に最も責任をもつ人

(注4) 治癒をめざした治療 ケアと対比されることがあります

     ただし、元の英単語はどちらも両方の意味をもっている様です