忘れられた夢の記憶 | 本日のココロイキ

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ヘルツォークには無条件で心酔していて、ずっと前にPLANET+1で観た『フィツカラルド』の衝撃が忘れられず、DVDを自分用に買うだけじゃなく、追っかけをしていた某スポーツ選手に送りつけるほどだった。

『フィツカラルド』とは、ひと言で言えば、「船が山を越える」という映画で、それをCGがない時代に実際にやってのけてしまうという、とにかくすごい映画だ。
わたしは某選手にどうしてもオリンピックに出てほしかった。
だから、本気になれば何だってできる、と余計なお世話だけれど、とにかくそう言いたかった。

最近のヘルツォークはドキュメンタリーをたくさん撮っているようなのだが、メジャーな映画館でその作品が観られるとは思ってもみなかった。
しかも3Dで。

『世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶』

2万年とか3万年とか気が遠くなるような、遥か以前の人間によって描かれたものを見る、というのはそれだけでぞくぞくするような見応えがあったのだが、撮影時間や方法をかなり制限された苛酷な現場に挑む、というヘルツォークのプロフェッショナルな姿勢が健在であることにやはり唸らされた。

前日に見たDOMMUNEの公開記念番組で、壁画は映画やアニメーションの原型ではないか、というようなことが語られていたのだが、
でこぼこした壁面に、明らかに動きを意識した、折り重なってコマ割りの連続のように描かれた動物たちを心もとない灯りの中で見ていると、確かに動き出すような感覚がしてくる。
見世物小屋とかサーカスのような、いきいきしたパワーを感じる。

だけど、しばらく見つめていると、刺激過多に慣れてしまっている現代人なわたしには退屈感は否めなかった。
むしろ、何万年もの時間をかけて自然が作り出した洞窟内の情景のほうにより美しさを感じた。

当時の人々の生命観を支えていたものは「流動性」と「浸透性」であったと劇中で語られており、このことはとても重要な、生きることの本質をついている気がする。
言葉を持つ以前の未分化な世界では、人間と動物には明確な区別がなく、いつでも互いに入れ替わることができたし、人間は自然や世界の一部として、それらのずっと近くに溶け込むようにして暮らしていたのだ。

金沢21世紀美術館にマシュー・バーニーを観に行ったときの中沢新一先生の講演を思い出した。

このことについては、もう少し深く考えてみたいと思う。