在ることの尊さを考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

俗に言うありがたいとは、有るという事が何かが在ってその有るという存在そのものの希少性や確率性について、遭遇するラッキー性又は、逢えたなら合うならば体験するラッキーハッピーや自身にとっての嗜好性における符号や合致一致といった重なるラッキーハッピーに奇跡的に出会うこと或いはそうした様々な現象や体験経験などを含めた物理的な物事に対して、有難い想いを抱く観方とも想います、したらば普段なら観ることのない自身の観測において、普段とは又違った観方が出来るそのような出会いは、自分自身の視座におけるすべてはそれ有難いモノかも知れませんと考えて観ました、

大変失礼致します、ごうさんというペンネームでブログを気ままに更新して観ます

ない筈のものがあるからありがたい、ともしもいうならば、ある筈のものがないことも又有難いのではないだろうかと考えて観る物語、すべてはメッセージ全ては贈り物と誰かがそう気付いたように、有ることだけにフォーカスする人たちは無いことに不満を覚えるかも知れません、有ることそのものの確率が稲妻に撃たれるくらい交通事故に合うくらい低い確率で、プールに投げ入れた腕時計の部品の数々が何もしなくても勝手に自然に組み上がり何故だか解らない仕組みで再度腕時計に成る物語性を人はおそらく有難いと想いそういうのかも知れません、その物語性は普段の現実的な日常生活においては、ほとんど無いに等しくて、別の表現が可能ならば、あり得ない筈という言葉や意識が一般的な人が想ふ有難いモノありがとうならば、今現在一部の社会に支配するありがとうとは、あり得ないとほぼ同調するモノなのかも知れないとも考えて観ました、仮に無意識のうちにそうした平均意識への同期が高い場合又場面で、人が言う又想ふありがとうは、例えば人と人との挨拶だとか行動行為に対しての返答声かけだとか、感情つまり自身の核たる内側から湧き出る泉の代弁というよりは、比較的マナーだとか模範や規範や礼節としての意識取り扱いが高く、感謝の念ではなく言うべきルールやるべき人としての正常な論語として語られる或いはそう捉えて観る当たり前のことになっているのかもしれません、こうした仮定を突き詰めると、人それぞれですが現代社会において人は人を信じていられないし、信じようにも信頼に値する信用に値する行動行為言動態度が余りにも信じ難い物事又は現実的事象の観測が合って、人は信じられないが当たり前な平均意識があってそれを前提としたたくさんのあり得ないに人はそれぞれですが現代において埋没し浸透しその世界領域で彷徨い苦しみ又或いはどうにかしようとならないかと考え悩みもがいて観たりする物語絵巻があるのかもしれないと考えて観ました、いいかわるいかではなく、ありがとうを皮切りに考えもしない自身の意識を考えた場合、例えばお金がないからないばかりにフォーカスするのではなくてある側面にもフォーカスしましょうとか、それは転じて物があるとかないとか、人にしてもらうことがあるとかないとか、目的も目標も夢もそう、生き甲斐ややり甲斐も、前向きに明るくハッピーに生きて観るその意識も視点も、自身とは何かというアイデンティティも存在意義も存在価値観も、あるとかないとか色んなところで、ない無い無いというよりは想ふよりは底ばかりに偏ったフォーカスをするよりは、有る側面を想像して観る有用性効用効果を考え直して成長という言葉でメリットを獲る得をする観方を優先し採用しているとしたら、南無阿弥陀仏と唱えてたら天国へ往けると信じた時代の人人と又同じような物語性が混沌とした世界観の現代にあるのかも知れないとも考えて観ました、人それぞれですが人は何故ありがとうというのでしょうか、それは隠しきれない自身の内側に在る形のないひとつのエネルギーを例えばひとつの形にして縛るとしたら感謝という感動という感激という自身を揺るがし自身を震わせる物語としてのありがとうなのでしょうか、ありがとうと口にする上で気付くのは自身の中に知るあり得ないという観測物語性を考えて観る物語、感謝感動感激して涙を流して嗚咽するくらないなラッキーやハッピーや奇跡的なものごとを目の当たりにして、そうした出来事に対して該当する言葉が見つからないし知らないし他に表現方法が解らないから、唯一知ってるひとつの頼りにありがとうを送る形のない本来に形として縛る物語性は、例えば旧来はその正直さの現れとして存続して来たかも知れませんが、マニュアル化する現代においては、あり得ないという人を信じて観ない当たり前の平気意識の代用にありがとうございますを置くとしたらならば、大切な家族や友人や仲間たち以外の経済社会に流通するありがとうというある種のエンブレムやブランド化された物語性とは又区別して観る自分自身の軸が構築出来たなら、いちいち他人のありがとうのありなしに左右されることもないようにも考えて観る物語、又有難いモノがあるという事は、無し難い或いは無き難いモノもおそらく在るとも考えて観る物語、有ることが尊いならば無いことも又尊いと観てもいいのかも知れない物語、するとあることも在りないことも在り、あれば有難いし無ければまたそれも有難いと想ふ物語、人それぞれですが現代人を信用できないばかりに信頼できる信用に値する人を観ると、その人は有難い存在だという認識は、根源に人を信じていない自身の認知意識取り扱いを又知ります、あり得ないという想い意識が多すぎれば転じてそれは有り難く無し難いモノなのかも知れません、奇しくも無し難いとは、成すことが難しいとも書き換えが可能であり、できる訳ないやれる訳ない人がそんな優秀で善良で平和的で温かく優しく慈悲深く愛に満ち溢れているなんてあり得ない、故に有難い物語性や存在に人はそれぞれですが夢を見て追い求め縋りつく頼りに想いリーダーを口酸っぱく嗜めたりする期待の希望の裏想いがあるのかも知れません、かつては愛情の裏返しだという教育や思想捉え方がありましたが現代においてはそれも又有難いモノかもしれません、つまりはあり得ないという平均意識が社会全体に支配圏を拡大して往くと、無いことが当たり前になるが故に無し難い物語性が創造されて往き、慣れない成れないなれる訳ない物語性が益々人を信じていられないプロットを産みそれは信じようとする人信じて観ようとする人へ愛情の裏返しとして、騙されないように嫌な想いしないように傷つかないようにとして、おそらくは本人にも気づかないような働きで、人は人をたしなめて口酸っぱくなりそれは嫌味や攻撃的な否定的な印象を産むひとつの側面になるのかもしれません、だからといっていいかわるいかをジャッジする断罪や裁判を想ふ訳でなく何事もあるが故にあり在る事そのものはすべて有り難く尊いものかもしれないと考えた場合、あることも有難いしないことも又有難いのだ、ふとそう想い観ます、一度変な話かもしれませんが、明日からありがとうの代わりにあり得ないと言って観る物語、口にすると角が立つ社会性がありますので、意識的にあり得ないと想ふ自身に気付いて観る物語、もしかすると抵抗なくてごく自然に普段からありがとうよりもその代弁にあり得ないと想い続けて来た自分自身に気付くかも知れない物語、こんなに自分はあり得ないと想い考え捉えて来たんだと気付くだけでもそんな自分自身を発見知るだけでも世界は面白くなって往くかもしれません、後はあり得ないとは有難いことなんだなあーちゃんちゃん、と遊べるならば、自分自身が何に縛られて何が観えなくなって来たのかも又新たに改めて知ることができるかも知れない物語

以上大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました