人それぞれですが、人は向上心を備えていて前に進もうと動くモノなら、否定的な自分自身ネガティブな自分自身の側面を否定してしまう物語性は健全なプログラムなのかも知れません、何でもかんでもスルッとまるっと肯定出来たならポジティブ一辺倒に在れたなら、世界は楽しくバラ色で毎日いつ何時でもハッピーで夢見心地な快適な居心地良い世界に観えるのかも知れないけれども、塩味が甘味を引き立てるように、否定があるからこそ生かされている肯定の存在を考えて観ました、人それぞれですが人は、どっちか選ぶ物語性の中をRPGしているようにも想います、どっちもという選択肢もそれを選ぶという意味では、どれかひとつに絞った選択に対峙するように想います、例えば、右に向かって往くのか左に向かって往くのかの選択肢において、どちらもを選択した場合には、身体的に2つに分かれて同時に左右へ往く事は今のところ不可能な物語性があります、どっちもと言ってもこのケースでは、どっちにしろ右から先に往くのか左から先ずは行って観るのかの結局どっちか選ぶ物語性にリターンします、真ん中という選択肢を加えても同様に言い方表現は、どれかに少し変化しますが、どれもと選択した場合でも、同時に往くことが出来ない点が悩ましいく、コレしかないと視界を狭めて観えるものが見えなくなって終わないようにする為のコツや考え方としてどっちもやどれもは、行動的な例外を含みつつ存在するように想います、それは、例えば、アイスを2個食べるにしてもかき氷を2種類選ぶにしてもコーヒーと紅茶を2種飲むにしても、アイスやかき氷は両手をうまく使って何とか同時に食べることは可能ですが、コーヒー紅茶を同時に飲むだとか、又はハンバーグとパスタを同時にスープも同時にラーメンだっていい、兎に角どっちから解放される為に編み出した、どっちでもいいどっちもいいどれでもいい物語性は、選択肢を選ぶという側面においては、どっちも、どれもを同時に選べる自由度と選べない不完全性を帯びてくるように考えて観ました、ここにもしも知性的な人はそうして結局結果的には、どっちかしかないじゃん的な、どれかを選ばなきゃいけないじゃんという、又再度どっちか問題に対峙して沼ループ化しそうな物語性の妙にエンタメにしんどさを想ふこともあるのかも知れません、いいとかわるいとかというお話でもなく、例えばみんないいよ、と言うけれども言いつつも、想い従い学びつつも、自分自身の等身大のリアルでは、みんないいんだけどもそう、みんないいというその判定基準が前提にあり、その中から結局のところ結果的にどれがみんな良くて、どうなると良くないのかが存在し、その良いとかの基準判定を支えている、どれは良くないのか、いいとは言いつつ想えないのか、という、どっちかを基本とする演算処理が働いて、右と左にみんなをとりあえず分けたところで、はいみんないいよ、というコトにする為には、結局結果として何を否定し何を肯定するのかという物語性を考えて観ました、
運動会、選手権、競技会、例えばかけっこして、短距離走して、リレーして、みんなで同時にゴールしようとする場合は、足並みを同じにしなさい速度を合わせない、個々にスポットは当てずみんなを基調にするという公的性が求められ又は強いられます、足の速い子は、ゴール手前で後から来る子たちを待っとかなきゃいけない、同時にゴールする為に、遅い子は先にどんどん進んでく子たちを最後尾から眺めつつも、みんなでいっしょにゴールする為に必死に追いつくような気力精神性を問われ、みんなが待ってるから大丈夫安心して自分のペースでゆっくりまったりほのぼのと進みなさいお行きなさい走りなさい、底には遅かれ速かれみんなといっしょに進もうという進むの1択しかなく、やあめた、という投げ出す逃げ出す途中から辞めて観る自由性は案外認められない平均意識もあるかもしれません、いっしょがいいとは言われつつも、だったら一人にして欲しい、結局のところ結果的に焦ったり慌てたり力んだり我慢したり耐えたり、自己を犠牲にしたり大切だからこそ好きだからこそ生まれて来る気を遣って観る物語性が気にする物語性が自分という個性を蝕んでゆくようで、みんないっしょがしんどかったり、それでいいよが辛かったりする物語性を編む可能性について考えて観ました、例えばオリンピックで選手たちが競技に切磋琢磨した結果、はい全員に金をプレゼント致しますねとみんないいねと良かったねと頑張ったね、とは誰しも考えない物語エンタメがありますが、みんな金メダルと言われたところで、何だったんだ今までずっと取り組んで来た物語は、という面白くない結末を迎える可能性を選手側にも観る側にも生まれてくる物語性について考えて観ました、どっちかじゃなくたっていい中で、どっちかだけにこだわらなくてもいいという捉え方の効用を活用する中で、且つ同時にどっちかでもいいし、どっちかにこだわってる自分自身を知り、それが好きな面白く想ふ自身を受け入れ飲み込観る物語性が大切で、選択からは逃れられず、選ぶRPGからはログイン中はどっちかに、どれかに、いいのかそうではないのかを選ばなきゃいけない物語性を受け入れるしかない側面を考えて観ました、では、人それぞれですが、現実的な生活する上でそれでもどうにかして、なんとかしてどっちも、どれもを同時に成立させるような物語性を考えた場合、否定も肯定も両立させて観る試みは何かないかと考えて観ると、言葉と表情と行動或いは態度や半のというカテゴリでそれは日常的に観ることが可能な物語について考えて観ました、それは、イライラしたり腹が立ったときに、その情感と同じリンクした言葉遣いや表情や行動態度反応を示すのが人のすること当たり前意識だと仮定した場合、それを壊す為に、それぞれをバラバラ又は別々にして観る物語、普段使いの言葉は咄嗟に変えることは困難かも知れませんし言ったそばから訂正しても中々通らない伝わらない物語性がある中、表情や行動態度は言葉とは裏腹にして観ることはタイムラグは個人差はあれども実際にやって観ることが出来るかもしれません、例えばイライラしたり腹が立って観ましたが咄嗟に出た言葉や不快感もそれに伴うモノだったとしても、ハッとして観て踊り出す何かしらのポージングをするいっそのこと笑うなどなど、俗に言う変な人になって観る物語、笑いながら怒ることは同時には不可能と言われますが表情と行動は変えることは可能かもしれません、例えば面白いという表現はひとつの判定ですが、そこに限定的な基準をビシッと設けずに、何事にも最後に面白い!と付けて観る物語、この物語は、怒りながら笑うや笑いながら悲しむことを同時にすることを可能にさせるように、自身を他人を絶対から少しでも解き放つこんがらがらせる判定として採用出来るかもしれません、嫌味な他人や否定的な他人に対して面白いと言葉に出すと角が立ち余計な誤解を産む可能性もありますが、言葉に出す場合は興味深いという言葉に置き換えると、面白くないけど面白ろそうなある種判定不可解な否定と肯定を織り交ぜる術で縛ることは可能かもしれません、なんでもかんでも面白ろがるのは返って不謹慎だ真剣さが足りない真面目なチ場を秩序を乱すアウトローだと捉えられるかもしれませんが、そうしたコレしかないと縛ろうとする他人の絶対領域を壊すには、そうだなぁある意味ではそうかも知れないな、と受け入れつつもそんな領域は興味深くもありかつまた、絶対どっちかに囚われる人間て面白いなぁ、に位置して観る物語、昨日は最悪の日だったなぁ興味深いなぁ面白いなぁ、今日はどんな一日になるのだろうか興味深いなぁ面白いなぁ、あの人は他人たちは今日も相変わらず暑い暑いと不安だ不安だとヤバいよくないいけないなきゃならないといふのだろうか、興味深いなぁ面白いなぁ、自身はいつまでネガティブなんだろうか、興味深いなぁ面白いなぁ、勘違いかもしれませんが秋の匂いがした気がしたこの頃、ずっと他人とはズレてる気がする自分自身との対話の中で、自分自身も他人もこの世界も興味深いなぁ面白いなぁと想い描いて観る物語
否定も必要であり肯定も必要であり得がたい体験を今日一日贈る物語、おボンを明けて人それぞれですがどの様に生まれ変わりこれからの自身の物語をどう描いて創造することが可能なのでしょうか、幸せではなくサチあれ、➕➖🟰➖➕も又興味深い面白い自分自身にとっての幸となります様に想います
以上大変失礼致しました
本日もよきかな一日をどうぞ
ありがとうございました