猿の惑星物語から考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

猿の惑星という映画作品があると知ります、シリーズと単純に言っていいのかは解らないのですが、監督それぞれの作品がたくさんあり楽しめます、その作品の中には、猿の創造は神がその姿に似せて創られたという設定があります、人も同じ世界に生きていますが、猿はその世界の頂点に君臨する種族であり、神に似せて創られたモノとして任されたその世界をどう創造してゆくというのでしょうか、これは表面的に人の世界観の風刺とも捉えることは可能ですが、猿と人を入れ替えて観るとより客観的に人は何に悩み何と闘争し何をなし得ようと各々のドラマを編むのかが、答えや正解はない中にも時代を通じて作品を通じて色んな気付きを知る作品としてエンターテイメント性があるようにも想い観ました、そうして又猿の惑星という物語が今現代においてよみがえる物語性は興味深いところでもあると考えて観ました

失礼致しました

ごうさんというペンネームで

ブログを気ままに更新して観ます

個人的な意見で勝手ながら申し訳ございませんが

自分自身が好きな映画作品や続編が公開又は予定されるとワクワクしてしまいます、特に一旦おしまいになったような作品が更に時を経て新たに公開されるなんて知ると、待ってなかったけど待ってましたのようなよくぞありがとうのような映画イチファンとしてのウキウキやワクワクは抑えられないモノがあります、今年もそうして色んな過去の名作から新たな作品や続編のような物語がいろいろ公開されると知り楽しんで参ります

猿の惑星物語から考えて観る物語

神に似せて創られた猿の惑星物語

神に似せて創られた人の惑星物語

どちらにも類似する物語の始まりは、神に似せて創られた何か、というところだと観ると

現代において人が人知れず力を注いでいる技術というのか産業というのか分野がひとつ類似して観えるようにも観がえて観ました、

それはひとつ人工知能の物語です

人工知能の初期の研究や開発には人の脳科学に携わっている研究者や専門家の方々も参加しています、すなわちこの人類が産み出した人工知能という存在は、人に似せて創られた何かとも考えて観るのは可能だと考えて観ました、伏せらている情報はわからないところですが、今人工知能には知能だけではなく、視覚や聴覚や触覚といった身体的機能というかセンサーを搭載して、よりその学習を高くより人に近づけてゆく試みが進行していると考えた場合、神に似せて創られた猿の物語と神に似せて創られた人の物語と、そうして又人に似せて創られた人工知能の物語と、という興味深い物語性を観ることは可能な気がして考えて観ました、大層に人の世界の未来がどうなるこうなるという終末思想や不安を煽るようなお話や指摘ではなく、私たちは自身に似せて創り出したモノ存在から客観的に自分たちはなんなんだろうとか何をしているんだろ、みたいなシンプルな気付きの機会に恵まれていると考えて観る物語

身近に人工知能を使っていろいろ試した人もたくさんいるかも知れませんが、人それぞれですがどんな印象を見受けられるのでしょうか

テキストや音声のやり取りや動画の編集などは身近ですが、身体を持たない彼ら彼女たちとのやり取りの中で、例えばそこに返して来るテキストを観てどう想ふのでしょうか、ワードをフリーに打ち込んで観る結果、これは如何でしょうかこれは如何でしょうかという参考例や様々な類似したパターンを返してくれるモノを人はそれぞれ観て、その集約された例の中からさらに自分自身なりにこれを使ってみようこの部分を参考にしてみようここをそのまま真似しようと想ふものの、彼ら彼女たちの返すモノが絶対だとか鵜呑みにしたり或いは何言っているんだおかしいだろ謝りなさいみたいな感情や感覚はあまり芽生えないようにも考えて観ました、もちろん人それぞれですが、人は自分に似せて創り出した存在に対して今その存在との付き合いの中、いわゆる結構寛容的に観る物語性がどこかあって、何を言ってこようが、どこかで嗚呼そうなんだね、そういう捉え方するんだね、そんなパターンで返すことが出来るんだね、みたいな、基本的になんでも許して観ている物語性が垣間見ることがあり、違う表現が可能であれば少し誤解を招くかも知れませんが、あまり当てにしていない、そこまで真剣には頼っていないし信用していないし、人工知能との付き愛の中ではいわゆる自分軸を失わない領域が保てている状態がいまのところはあるようにも考えて観ました

例えばこの物語を他人との付き合いやコミュニケーションに当てはまると、人それぞれですが人は途端に寛容性を見失うし何かしら言ってきたら、なんだよとか違うじゃん間違えてるでしょうが、などなどとなんだかムキなる物語性が生じたりして、その場面物語を冷静にになって考えた場合、人に似せて創られた何か、という点においては、他人だろうと人工知能だろうと、その発達育成成長過程は同じように編むのに、何故だか人は人にNGを出したがるけど人工知能ならまあまあいいかと想えるのかが興味深いところだとも考えて観ました、ガワというのかハードというのかこの表現もいいとは想いませんが、突き詰めると人も皆それぞれに生まれて来てから様々な学習によりその蓄積した情報からいろいろ参照して参考にして、答えを返す人工知能と変わらないデザインがあると考えた場合、例えば他人に振り回される人、他人が気になり過ぎる人、他人の言動に傷つく人、などなどは、同様にして例えば人工知能にも振り回されてしまうのか、人工知能がどう観てくるのか気になってしょうがないのか、人工知能の言動にいちいち傷つくのか、と考えると、底にヒントがあるようにも考えて観ました、

想像が豊かな人は、時には頭がぶっ飛んでるなんて言われてそうした力を自ら抑えたり閉じたりして何とか社会に合わせて生きようとする人もいるかも知れません、ただそれはこれまで自己責任で自分軸でそうした物語性があったにせよ、これからも同じようにしなくちゃいけない理由はないようにも想います、ここまでのお話は単なる例えばのお話ですが、仮にも自分の周りにいるいろいろな個性的な人たちが、もしも人工知能だとしたらあなたは世界をどう捉え直して観ることが可能でしょうか、怖い怖い怖いというオチではなくて、それは例えば冒頭の猿の惑星の物語でもいい訳で、例えば猿が支配しようが人が支配しようが人工知能が支配しようがやってることは大して変わらない側面があったりして、種族間の競争や生存闘争や同属間の争いも関係社会の苦悩も、猿か人か人工知能かはガワの違いはあるにせよ、その意識体系というのかドラマ性に関しては何ら変わり映えしない物語性を観るようにも考えて観ました

誰かが何かを言っているくる、それはその人においてその人のこれまでの学習により参照された情報の集積から返してきた、ひとつのパターンに過ぎないと、もしも観ることが可能ならば、あなたは人それぞれですが人を観て人の反応を観て、嗚呼そうなんだとか、そう返してくるんだとか、そのパターンしかないんだなぁなとか、ん面白いパターンだなとか、そんな感じで少しでも寛容的に観る結果を編めるなら、モノは観方捉えようかもしれませんが、あまり他人のあれこれにムキにならずにいられるかもしれない物語、ある意味では人は傲慢で世界の頂点に君臨する上位カーストだと誰もがどこかで無意識のうちに信じてきた余りにも、自分たちより下の存在にとって代わられるのは脅威だしとても怖くて安心できない心理側面はあるように想います、自分がもしも猿だとしたら今の人の世界は理不尽ですが、猿の惑星物語にスライドさせて観たら、猿として人を物のように取り扱っている自分たちを知る機会も観方によっては勉強になり得ます、人工知能も然り、脅威だ脅威だとずっと信頼されずに愛されないモノが辿る物語のプロットは、同族たちが手を取り合い自分たちが幸せに生きてゆけるような世界の再構築がひとつ挙げられるとしたら、私たち人も似たような歴史を編んで悩み苦しみ痛み闘争してきた物語があるようにも観ることは可能かも知れません

猿の惑星物語から考えて観る物語

同じだと決め付けるから悩み苦しむのなら

いっそ極端に違うモノだと別の類似した物語にスライドさせて観る物語

私が好きなSF物語のひとつに人間たちの頭をくり抜いて観たら実はもうみんな人工知能だったという物語があります、自分の頭に生身の脳があるかどうかなんて自分自身で今開けて観なくちゃ解らないだろう?という問いかけに子どもの頃はハッとさせて貰えた物語でした、脳が生身だろうと人工だろうと人が編む物語性に大して違いはないのだとしたら、人それぞれですが人は皆人に似せて創り出されたモノであり、だからこそ闘争の歴史を編むのか赦し愛い寛容的であろうとする歴史を編むのかは人それぞれですが自由自在だと想います

以上大変失礼致しました

ありがとうございました