今日は赤ちゃんかも知れない物語を考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

教育制度がある国では、子どもたちは、ある年齢的な段階を経て自分の属するコミュニティや社会や人というモノが生きているこの世界について、色んなことを大人と呼ばれる年長者又は人生の先人たちから教育を受ける機会を経ると想います、西洋風な感覚では主に学校と呼ばれる施設や教会のようなある種の機関とも言える教授する場があり、名詞は様々になると想いますが、兎に角子どもたちは大人というモノたちから何かを教わりその教えを基本設計にして先ずはこの世界でのログイン後を観て生きる物語性があったとして、今現在大人に成り或いは大人と呼ばれる人たちが目の前の現実と呼ばれる日常を生きる上で、参考参照する思考の基本設計は、いつかの誰かたちの当時の教え型に絶対とは言えませんが、多少の恩恵を授かっていると考えて観ました、その恩恵を当時まだ子どもだった頃に基本設計した教え型を、今だに自分自身が参照する思考パターンのひとつだと仮定した場合、例えばひとつ算数をヒントに考え直して観る物語

失礼致しました、ごうさんというペンネームでブログを気ままに更新して観ます

世代ギャップや環境の差異はありますが、学校に通い始めて算数の授業を受けた当時、先人からどのような思考パターンを学びましたでしょうか、

例えば算数の場合、いちたすいちは、に、と学び、いちかけるいちは、いち、などなどと公式とも言える左から右へ文字や記号を読み解いて右側へ向かって流れて解答を出す、というようなひとつの型を学んだように考えて観ました、上から下でもなく、右から左へでもなく、下から上はたまた斜めに描いたり読んだりもせずに、左から右へ段落を経て最終的にまた右端へ解答を出すこの型は、ひとつのパターンでありひとつの教え型でもあると仮定した場合、その基本設計を参照する私たちは、右から左、下から上、斜めから斜め、裏から表のようなパターンをかなりトリッキーなパターンとして認識する回路が育まれているかも知れない物語、それの何がいけないのか、というお話ではなく、そんなこと考えもしないし疑問にすらアイデアしない至極当たり前な型というものは、あらゆる面で自分の創造性豊かな可能性を型にはめて狭くする視界を構築すると仮定した場合、常識を疑って観るとか普通を不通だと書き換えて観るとか、ちょっとロックな側面も想い出すかも知れませんが、ひとつの遊びとしてこの世界の楽しみ型、観型は、今自分自身が採用する当たり前のパターンひとつではないかもしれないと考えて観る物語、子どもたちの遊びの風景を想い描いて観ると、例えばひとつの遊びを教わった後に基本設計にちょっと飽きたらそれぞれが仲間うちでアレンジやカスタマイズを加えて、同じ遊びでも地域差が生まれていたりする物語性を考えて観ました、最近ではそのアイデアの延長上で様々な学術学問においても、既存のやり方や解き方を置いて、自分たちで考えたアプローチで解答を出している子どもたちも少なくはないように想います、それをトリッキーだとか特別なギフトと呼ぶのではく、単に遊び方の工夫ひとつで人は様々なものにスライドさせて今まで構築して来たアルゴリズムに対して、又別の解答パターンを創造できる力や能力がある可能性について考えて観ました、話は巻き戻しますが、では例えばいちたすいちは、に、で考える人は、今まではそれが当たり前だったかもしれませんが、もうその遊び型には飽きていて、答えは、に、しかあり得ない世界に自身を閉じ込めている縛っていると仮定した場合、これから試みてもいい遊び型は、に、イコール何があるかな?という、慣れていない右から左へ流して観る物語、先ずはそうした例えば算数からチャレンジして観て、だんだんそこに国語や英語や音楽やらとまるでなぞなぞを創るようにして、解答パターンを増やして観る物語、それは視点や視界の広がりに役にたつ可能性がありますし、思考パターン解決パターン想定パターン問題パターンなど日常のあらゆる面で、これまで参考参照して来なかった領域から同じ物事でも多面性多様性を観るきっかけやヒントになり得るかも知れません、いちたすいちはに、生きる上でニッて笑えるには、いちたすいちをしなくちゃいけないという基本設計に縛られているとしたら、その人にとっての毎日は、その人にとっての様々ないちたすいちを考えたり行動したり参考参照して観たりする物語性を、にって笑えるにはどうしたらいいだろうに、二って成るには何があるだろうと自分自身なりに考え直して観たりすると、底にはいちたすいちだけじゃない世界が自分なりの創造性豊かな世界が新たに広がっているかも知れない物語、子どもたちに例えば一度尋ねて観てもいいかも知れません、ニッて笑うにはどうしたらいいのか、二に成るパターンっていくつ想像できるのか、人それぞれいろいろあるとは想いますが、今日という日は凶なのか狂なのか強なのか興なのか教なのか共なのか叫なのか、それを右からではなく左から考えて観る物語、こんにちは今日、今日はこんにち、来ん日って未来ってことなのでしょうか、今日未来、人はそれぞれどんな未来を生きるのでしょうが、新しい一日をどうぞ楽しんで遊んで観る物語

以上大変失礼致しました

ありがとうございました

本日もよきかな一日をどうぞ