あたえるともらえるについて考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

俗説的と言っていいのか、一般的又は代表的な議論や問いかけと言っていいのかは、解らないのですが、そのひとつのテーマ或いはお題に対して人それぞれですが、あなたならどう観るかどう捉えて来たのかどう考えて観るかを、自分自身に当てはめて考えて観ました


例えばひとつお題があったとします

愛とは与えるモノでしょうか?もらえるモノでしょうか?


失礼致しました

ごうさんというペンネームで

ブログを気ままに更新して観ます


上記のようなお題或いは問題に対して、どちらかでしょうか?という誘導に知性のある人は、どっちかを選ばずに、どちらもとかどちらかでない、どちらの可能性はあるしどちらでもないそもそもの存在証明や定義の難しいさから故に解なし等となぞなぞみたいな答えをして観る人もそれぞれですが、今回は自分なりにどっちかかもしれないと仮定して、いろいろとズレながら与えるモノなのか貰えるモノなのかについて考えて観ました


愛は地球を救うとも言われたりしますが

その愛は、与えるモノなのか、貰えるモノなのか


結論から申し上げて観ると、今回のわたしは、与えるモノなんじゃないのかな、という自信のない解答を致します

人それぞれですが、とりあえず今回は、愛は与えるモノとして考えて観る事に致しました


先ずは

貰えるモノ、貰えること、貰うというからには

与えてくれる存在、与えるモノがあり、貰いたいけれども貰えない場合を考えると、つまりはそこには与えるモノがいないという観測があるとしたら、貰えるには貰う側にとっての、与えるモノ与える側の存在を意識した上での貰える貰えないが

認知認識されて往く物語性があるように想い観ました

卵が先かニワトリが先かというお題にも似ているのかもしれませんが、貰える側が最初に誕生して貰える存在貰いたい側貰わなきゃやっていけない何かが目の前に具現化して、その存在を知り初めて与えるという事を意識する与える側になる物語を考えた場合、それは大切な方とお付き合いしたり結婚したり子どもたちを授かり産み育てて往くような場面においては、特に自分自身は対象に相手側に何を貰えるかよりも何を与えるかにフューチャーされる物語性があるかもしれないと考えて観ました

どっちが正しくてどっちがいいか

どっちが先でどちらが後かは

愚問になるかもしれませんが

今回はどっちがというお話ではなく、日々自分自身が生活の上で人それぞれですが、何を起点にして何に疲れたりしんどくなって観たり、何にやり甲斐や生き甲斐を観たり、この自分自身が生きる世界における素晴らしい物語性の中でも、人それぞれですが、人が成すそれぞれについて何が素晴らしいと考えて観るのかについて考えて居ました


例えば赤ちゃんが生まれた時、赤ちゃんは最弱の存在として貰うことで始まる物語性を編みますが、ご両親やご家族も含めて赤ちゃんに何を与えるのがいいかわるいか正しいかではなく、貰える存在の誕生によって、与える存在として生まれる、言い換えて観ると、与えることを与えられる与える機会を得られる、与える体験与えて観る経験の場をより解り易く自分自身の現実に投下する物語性があるように想い観ました、与えなきゃいけないとして観るとその物語に辛く困難で苦しみや悩みを抱く人もそれぞれですが、この与えるという言葉或いは与えるというテーマ課題が、ときに人それぞれですが、自分自身の悩みの種になったり、又は自分自身の成長の機会となったり、或いは与える存在与える物語を通じて世界の素晴らしいさを知るきっかけになり得るのかもしれないと考えて観ました

ここで一旦わたしらしくお話をズラして観たいと想います


与える、貰えるとはなんなのだろうと考えて観ました

与えるとは、その文字通りを表記を書き換えて観てもいいのなら、与える🟰a 他 得る とも観ることは可能かもしれない物語

では、貰えるとは、貰える🟰も 裸 得る と書き換えて観るとなんだかどちらも何かしらを得る物語の共時性のような興味深い側面が観えて来たりして面白いかもと想いました

与えることが仮にも苦しみを産み出す物語性を編む場合、それは与える🟰a 耐えることになって終うのかもしれませんし、貰えることが仮にも痛みを産み出す物語性を編む場合では、貰える🟰モラ 得るになって観たりするのかもしれないと考えて観ました。モラとは他者のモラル、他人の価値観や正義や模範規範厳格なルールとも書き換えて観ると、例え貰えるモノがたくさんある豊富な世界において、人それぞれですが貰いたくないモノもあるし、貰えるなら貰いたいけれどもそれじゃないのという与える側への善し悪しをジャッジような物語性もあったりして、与えるにしても、なぜだかセンスを問われたり良識というのか教養というのか、与える物語の多様性についてもいろいろと考えて観たりする現代においては、悩ましい又は面倒くさい物語性を与えることには帯びているのかもしれません

いいかわるいかではなく

何が正解かではなく

こうしていろいろ自分自身なりにズレながら考えた場合、今回は与えるという物語について考えて観ました。愛は地球を救う、愛は与えるモノなんて断定しなくてもいいでしょう、ただ人それぞれですが、何に喜びや素晴らしいさを観る機会があり、何に困難や苦しみや痛み悩みを観るのかを考えて観ると、貰えることよりも与えることの方が、若干な難題性が僅かにあるかもしれないとも考えて観ました、人それぞれですがそれは一概には言えず、貰えること貰うことに難題を抱えて観る人もいる中で、与えるにしても貰えるにしても

何れも双方にとってはその機会を与える物語性を帯びていて、与えたくて仕方ない人たちへは貰う機会を貰いたくて仕方ない人たちへは与える機会を、そうして相互に持ちつ持たれつで人は人それぞれですが、自分自身を知る機会があるとしたらと考えて観ました

現代において、人それぞれですが人は現在、与えることについて過敏で厳格で詳細な正解にこだわって観たり、与えない物語に意識が高くなっているのかもしれないとも考えて観ました、貰うことが空気のように当たり前になり、貰うことの豊富さがたくさんいろいろありすぎて最早そんなにいろいろたくさん貰う必要もなくなったり、そもそも要らないモノまで空気読んで気を遣い対象が報われるようにと優しさとして気持ちを汲み取り、貰いたくないモノまで貰える、貰い続けて来たような物語性の中、貰えるんだけども貰わない勇気や、与えるのもいいんだろうけど、与えるにしたっと自分自身の存在価値や存在意義を確かめる為に自己満足の一心でなり振り構わないで、貰って貰ってや誰か要りませんかーと自身よりも弱い立場や困っている人たちを絶えず探して観る旅に忙しい物語を編むのも人それぞれですがいろいろあって興味深い側面があるように想います

みんなそれぞれもしかすると、与えて観たいし貰えって観たいかもしれない物語、人の形を成してこの世界に生きて観ることを与えられた機会が今あるとしたら、人はその機会を初めに貰えた存在かもしれませんし、その与える機会を与えた存在とも言えるのかもしれないと考えて観ました

人はこれから与える物語性についてどんな意識を高めて往くのでしょうか、或いは又自分自身は他者だけでなく自分自身へ何を与えて何を自分から貰うのでしょうか

あたえるともらえるについて考えて観る物語


以上

大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました