安心を提供する試みを考えて観る | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

どんな物事や事象にも

不安はつき物です


不安と対峙した時

どう対処するのかは

人それぞれです

健闘次第です

そんな側面を持つことを

考えて観た場合


今のところ当事者以外に

出来る何かが挙げられる

すれば


安心を提供すること

ひとつあるように

考えて観ました


それは

安心を想ふこと

安心を祈ること

安心とは何かを

考えて観る

観察によってシミュレーション

個々によって

合わせて

個々が安心していられる

場所や環境とは何か

今のところ

これからの

未来を想像させて上げる

こと


それもまた

立派な支援になると

考えて観ました



何の根拠もなく

共通の認識や言語体系も

確認せずに

ただ

お花畑を楽観的に

想像しましょう

言われても

伝えたいことが

伝わらない

世界観の違いを認めて観る物語



言葉だけじゃなく

言葉だけに頼らず

言葉だけで判断せずに


言葉は単なる

釣り糸のようであり

当たりを探って観る

センサーの使い方を

意識した場合が

人それぞれです

人の求めている

本来を

互いに確かめ合う

物語へと

発展させる可能性に

ついて考えて観ました



あまりにも

形の世界に慣れすぎた場合

形以外の大切さを

見失うのは

現実的には避けられない

物語性がある

想い観ました




プレゼントを

渡すか渡さないか

悩んだり

自分と自分自身が

揉めたりするのは

形以外のものを

観る試みが

盲点になっているかも

しれない

気付く機会にも

なり得ます

ように





人があるときを

堺にして


出来る

言わなくなってしまった場合


出来ない

とも

言わなくなってしまった場合



人は

その

出来るという

アタリから

感覚を研ぎ澄まして

何が出来るのだろう

何がどう出来ると

言っているのだろう

その人にとっての

出来るとは何だろう

知るためのステップを

少しずつ少しずつ

手繰り寄せてくれる

気がしない

フォーカスを

信用している

潜在的な可能性に

ついて考えて観ました



言っても仕方ない

しょうがない

意味がない

ような物語が

蔓延する物語の

土台にあるものは

安心して居られない

関係性が

挙げられるかも

しれません



その物語にまた

人それぞれです

傷つき諦め

互いが互いに

安心を提供する側としての

試みで物語を観る

機会を失ってゆく

ことも

考えられるように

想い観ました



安心は他者という

自分自身以外の

あらゆる形が

存在する以上

与えられるモノ

でもあります


創造性で生きる

人にとって

重要なのは

ひとつの形に

宿るモノとして

創ること

構築すること

与えること

提供すること

広げていくこと

ひとつの使命

又は役割だと

言えるかもしれません







失礼致します

ごうさん

という

ペンネームで

ブログを

気ままに

更新して居ます






人がもう

次第に会わなくても

いいように

なって来た今


会わなくても

できる

安心の提供とは

何が挙げられるの

でしょうか




それでも

会いたい

想ふのは

会わなきゃ出来ない

環境が生まれて来る

物語について

考えて観ました



ネットが遮断され

電気に頼れなくなった

とき


会わなくても

出来た安心が

壊れて

会わなきゃ出来ない

安心の構築

安心の確認

安心を提供する為に

アタリをヒットさせる

試みが

必要になる場合がある

ように

想い観ました




あなたがしなくてもいい

ことをあなたが

しなくちゃいけない

不安になる必要も

ありません


知ることは

あなかがしなくても

安心して居られる

物語がある事

互いに信頼されて

いる世界観です


わたしがしなくては

安心して居られない

という物語を信じて

いる場合には


わたしを安心させる

為に

わたしがわたしに

安心を提供する

試みはあったと

しても

その物語が

他者を安心させて居られるか

どうかは

別問題だという

理解を深めて

安心を提供することに

ブレずに居られるか

どうかの

覚悟も必要になります



他者の為に安心を

提供しようとする

試みは

互いに気持ちだけは

理解しようと

汲み取ろうと

しつつも


わたしがしなくちゃ

産み出す

不安の源泉

安心を提供しなくては

いけない

という

自分自身の不安は

どこからやって

来るのかを知る

機会にもなり得るかも

しれません




いいかわるいか

ではありません

正解かどうか

正しいかどうか

いい人かどうかも

単なる形ひとつ

にしか過ぎない

かもしれません



大切なことは

そこにある

響きについて

考えて観ました








少しずつ少しずつ

世の中も

時代も

人も

変化して居ます


それは

始まりから続く

物語でもある

ように想い観ました



動く物語に

生きている以上

変化を無視することは

出来ない物語性も

あるように想い観ました


いいかわるいか

関係なく

動くという事は

変化するという事と

兄弟のようにも

想い観ました



激動という物語も

時間の伸び縮みを

どう観るかの

切り取りや

個々のフォーカスに

委ねられる

側面があるように

考えて観ました



動いている

自身を

感知できなくなって来たら

ちょっとした

変化も激動に

観える可能性は

あります


あたふた

するから

どうのこうの

という

お話でもない

知ります



眠り続けて来たなら

突然起こされて

あたふたするのは

健全そのものです




ありの一歩が激動か

ぞうの一歩が激動か

考えるのではなく



動きに携わっている

振動の性質や色合いに

ついて考えて観る物語



何の音が聞こえるのか

何故その音が響き渡っているのか

大切な響きとは何か




安心を提供する試みに

ついて考えて観る物語







以上




大変失礼致しました



ありがとうございました