「自分のよりずっと大事な明日が毎日やってくる」

 

この一節でこの本のすべてを表せていると思う。

たくさんの親子の物語があって、たくさんの表現があるけれど

こんなにも端的に素敵な言葉はないって思える。

 

私の息子はこの3月で大学を卒業して、私は主人公の最後のお父さんと同じで42歳だけど

自分の人生より、自分の明日よりも大事な明日や人生を知っている。

そして、それを知っているということが、こんなにも幸せなのだ。

 

この本を読んでいるうちに哀しくて苦しくなってしまう。

もっともっともっともっと注げるものがあったはずなのに、

もっともっともっと手間暇を惜しまずにやれたことがあったはずなのに、

もっともっともっとずっと耳を傾けて何かを言ってあげられたはずなのに。

自分のよりずっと大事な明日があるなんて、なぜ気づかなかったんだろう。

いつまで経っても私は愚かで、もう抱きしめることも簡単ではなくなった息子に

何もできない、つまらない、ただの空回りした親になった。

 

この本に出てくる主人公の親たちは、たくさんの愛情があって

それぞれの形は違えど伝わる愛情を注いでいる。

だけど現実はどうだろう。伝わる愛情ってなんだろう。

どんな親であったなら、よかったんだろう。

どんな言葉であったなら届いたんだろう。

 

どんな親であれたなら、私は後悔しないでいられたのだろう。

 

 

母は、海より深くもなければ空より広くもない。

ただの人間だけれど、日々に追われてヒステリックでもあったし、

時に理不尽になったり、ものすごいケチだったりもしたし、

時々隠れて美味しいものを食べたりして、勝手なことも言ってたけど。

 

あなたが哀しいのがこの世の中で一番いやだよ。

あなたが辛い目に遭っているのは耐えられない。

もし誰かがあなたを傷つけたら、絶対に許しておかない。

あなたの不幸はすべて引き受けたいんだ。

 

母にとっては、自分のよりずっと大事な明日があるってこと。

それがあなたの明日だってこと。

 

息子よ、卒業おめでとう。

よく頑張ったね。本当によく頑張ったなって思う。

でも、ごめん。母業の卒業はもうちょっと見送ってほしい。

どうも、まだ単位が足りてないようだ。

 

そのうえで、一つお願いがある。

あなたが中学から母を名前で○○さんと呼ぶようになったけど、

そりゃ30歳そこそこのときは、それでいいかなとも思ったよ。

でも何ていうか今はさ、ちょっと寂しいっていうか。

他人行儀っていうか。

できれば、お袋とか母ちゃんとか呼んでくれないかな。

 

まだ母業を張り切りたいんだ・・・もう少し付き合ってくれよ。

だって42歳で引退って早いでしょ!

 

 

私たちが今住む世界には新型コロナウィルスが蔓延し、

人々の暮らしも命も脅かされて密やかに暮らしています。

何百年もしたら、人類の歴史の一つとして子々孫々に語り継がれるのかもしれません。

 

だけど今は皆が戦っている最中です。

日々、一人一人が忍耐を強いられる毎日でそれは一人も例外がないのです。

ときに人々は大変な境遇の中にいる人たちを憂い優しさや思いやりを示し、

ときには誰かが命を落としています。

 

その中で最前線で戦っている医療関係者の方たち、

ライフラインを支えている方、食料品を取り扱っている方、物流の方、

お役所の方、私たちが家に籠っていてもつつがなく暮らせるすべてを支えている方。

本当にありがとう。

言葉では何も救われないかもしれないけれど、本当にありがとう。

 

貴方たちが何より守られるべきであり、そして称賛されるべき勇者です。

貴方たちにも大切な人がいて、家族がいて、そばにいたい人がいる。

危険だと分かっていても、この困難に真正面に戦ってくれている。

 

ありがとう。

そして辛い思いをさせてごめんなさい。

本当にごめんなさい。

 

いつか自由に外に出られる日が来たら。

そのときはありったけの感謝を伝えたい。

 

戦ってくれている人たちに。

いまこの世界で戦ってくれているすべての勇者へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

壷井栄さんの不朽の名作『二十四の瞳』。

戦争時代の小さな島を舞台に新任の女性教師と生徒のお話。

そして戦後、大人になった生徒たちの行く末。

 

本の中で、こんな文章がある。

『彼女の母もそうだった。

 子供5人が女であったことは、すべて自分の責任であるように

 夫に気兼ねをしていた。

 それは子供にもうつって、女に生まれたことを

 自分の責任であるかのように考えていた。』

 

女であることは何にも役に立たないという時代。

 

哀しいけれど、その事実は今だって感じることはある。

私は、外資のコンサルファームで働いているけれど

ここでも女性の結婚や出産・育児は、仕事との両立が難しい。

100人に一人しか、両立できるている人がいない。

人口の半分は女性だっていうのに。

なぜ子供が生まれた男性には両立ができているのだろう。

 

役割を変えてみたら、立場を変えてみたら、見える世界は違うのだろうか。

 

世の中の男性が見ている世界というものは、どういうものなんだろう。

どんな世界になったら、どんな社会であったなら、

男性も女性も、同じように笑っていられるのだろう。

 

同じじゃなくてもいい。

 

私が、たとえば男だったら。

きっと、家庭の大黒柱はきついときがある。

そんなときは、なにもかもを投げ出したくなる。

会社と家の往復で、人生が終わった気になるかもしれない。

優しくない奥さんは、余計に孤独にさせる。

何もかもに行き詰まったら、捨ててしまう気もする。

 

女はいいよなーって考えうときもあると思う。

出産とか育児で、一旦は社会に対して小休止できて、

仕事のプレッシャーとか、会社で上手くいかなかったときは

心から羨ましがるかもしれない。

 

奥さんが、独りぼっちで社会に取り残されて

たくさんの不安に押しつぶされそうな気持を抱えて、

泣き止まない赤ちゃんをなだめながら、涙を零したことも知らずに。

 

 

そうだ。

私には、見えるものが限られている。

生きていく中で出会う人も限られるし、

得られる知識も、生きていける世界も限られている。

 

無限じゃない世界で、私は生きているのだ。

昨日よりは今日のほうが、死に近づいているんだから。

 

そう思ったら、より良く生きることを

人生が豊かであることを

大切な人を哀しませないように愛おしむことも

言葉にして理解しあうことも

過ぎてしまう時間の重さを

同じように涙することも

くだらないことで笑いあうことも

 

そのすべてが私の人生なんだ。

 

人生は、すばらしい!

 

 

 

 

 

 

 

忙しい日々を送っていると、

疲れがなかなか取れなくなってくる。

でもね、なんか可笑しい話なんだけど

疲れやすくなった身体とはちがって、

心はまだ笑ったり、その状況を楽しんだりすることができる。

 

若いときは、忙しくて疲れてくると心の余裕を失っていたのに、

年を重ねると気持ちだけは、なぜかしっかりしたまま。

 

良きことかな。

良きことでしょう。

 

さて、この本。

人の幸福は何かで比べたり、その価値を押しつけたり、

定義しようがないとは思うけれど。

 

誰にも必要とされない、ってことが絶望的な気持ちになるのは

やっぱり独りぼっちでは生きていけないからなのかな。

だから、もし絶望的な気持ちでいるときに死が迎えにきたら、

受け入れてしまう弱さは、誰にも否定できないのかな。

 

そんなときに、強く生きろ!・・・なんて言葉は、

この世界に繋ぎとめておけるほどのものじゃない。

 

でもね、でもね。

私は、母として十分に生きさせてもらったから思うけど。

生まれたときは、哀しみを知らない、孤独も知らない、

絶望なども知らない、ツヤツヤの赤ちゃんだったんだよ。

 

その小さな手で、幸福を掴んでほしい。

単純な願いだけど、そう思ってる人たちはたくさんいると思うんだよ。

 

たった一人の人間の絶望が、ときに誰かの心を痛めたりする。

それが、この世界の真実でもあるって信じられないかな。

すこしでも一日でも、生きる時間の先にきっと

生きててよかった、ではなくとも

死ななくてよかった、と思える瞬間が

誰かのやさしさに触れる瞬間が、あると思う。

 

 

その瞬間は、

もしかしたら生涯を全うできるほどの

気持ちを生みだしてくれるものかもしれない。

 

その瞬間を与えるのは、

もしかしたら

ほかならぬ貴方なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

食事を与えることは、生命を与えること。

 

食べてみないと分からない、なんて、人生みたい。

 

人はたくさんの間違いを犯すけれど、

それでも確かな幸せを得られるなら、

間違いを恐れるべきじゃない。

 

 

本には、こんな文章があった。

 

 

1年前と今では変わったことがたくさんある。

一人暮らしを始めた息子が、優しくなった。

必ず、ありがとう、って言うようになった。

それが、親として当然のことだとしても。

 

だけどね、嬉しいのに切ない気持ちにさせるんだ。

どうしてだろう?て考えてみると、

それは、ありがとうの分だけ、後悔するからだ。

 

その時々は精一杯やったつもりのことでも、

本当はもっとちゃんと、たくさんの時間を彼にかけてあげられたはずなのに

私は、そうしなかった。ということを突き詰められるから。

 

もっと、美味しい食事を出せたはずだった。

母親として、彼と向き合い続ける時間はもっと作れたはずだった。

習い事ももっと取り組めたはずだし、お弁当ももっと手をかけられたはずだった。

 

ありがとう、をもらうたびに、取り戻せない時間を痛烈に後悔して、

自分への情けなさと息子への懺悔の気持ちが呼び起こされてしまう。

泣きたいのは、私じゃない。彼だった。息子だったのだ。

それなのに、私はずっと楽なほうを選び続けた。

 

ちっとも、良き人間ではありしない私が過去にずっといる。

ただのバカヤローである。

 

息子よ。

もう、ありがとうなんて言わないで。

償いなんてできやしないけど、せめて何かさせてよ。

でないと、母親でいられないじゃん。

ただの親戚になっちゃうもん。

 

 

 

確かな幸せを得られるなら、間違いを恐れるべきじゃない

なんて簡単に言うけど。

確かなもの、なんて自分にしか決められないのなら

どうやったら、間違いは恐くないって思えるの。

 

間違えだらけの私に、

この先も、これからの未来も、

きっと間違えてしまうことがあって、

それが取り戻せないことだとしても、

それでも確かな幸せってやつがあるのなら、

それを信じることでしか生きていけない気がするんだよ。

だから、今この瞬間を大事にするしかないと思うんだよ。

 

なにもかもを大切にしなくちゃ、って思うんだよ。

ありがとう、だけで泣きたくなるのはズルい気がするんだよ。

 

 

なんだか、ズルい気がするんだ。