怒りにエネルギーはない
何かが起こったから、腹を立てるのではありませんでしたね。大きなことが起きたから腹を立てるのではなくて、大きなことと見えるものがあったときに、エゴが反応します。怒りというより、罪の意識、悲しみが反応しています。そしてこのジャッジメントを使って、罪の意識、悲しみから目をそらし、怒りに変換していきます。エゴはこのように反応しているのですね。
それで、なぜこうなるかというと、もともと反応したくてうずうずしているものがエゴにあるからです。大きなものがもともとあって、ここぞとばかりに飛びつくわけです。そしてここぞとばかりに発散させられます。
うずうず、うじうじしているのは、恐れですね。自分は攻撃されるかもしれない、攻撃されるはずだ、なぜなら自分はこんなに弱いのだから、という前提があるから、攻撃されるということを知覚します。それは全部、自分の中で起きていること、自分の責任です。ところがエゴは、たちまちそのことを忘れてしまって(自分に忘れさせて)、相手の攻撃も、自分が自分を守るためにする攻撃も、「正しい!」「自分には責任はない!」と思うのです。これが怒りです。責任転嫁ですね。
東日本大震災が起こって、喜んでいる人なんていません。でも、エゴは興奮しています。鬼の首をとってつかまえるとはこのことで、「ほら、見ろー!」と、エゴはいきり立っているわけです。このうずうずしている感情がいっぱいあれば、その感情の噴出も大きくなります。
では、うずうずしているエゴにたくさんのエネルギーが詰まっているかというと、ここにはエネルギーはありません。怒りのエネルギーなんて、そんなものは存在していません。どこにあるか、もうご存じですよね。スピリットにあります。スピリットの中にしかエネルギーはないのですね。
スピリットの豊かなエネルギーが出ようとしているときに、エゴに当たって、怒りと悲しみとジャッジの間をぐるぐる行ったり来たりします。これがたとえば今の状態かもしれません。そうすると、では、ご自分に今何が起こっているかというと――。
うずうずしていた怒りが今噴出しています。うずうずしていた怒りというのは、スピリットの愛が出ることを止めていたものですね。止めていたものが、噴出しています。つまり、怒りで止めていた愛のエネルギーが噴出したがっています。エゴのところで中途半端に止められることなく、気持ちよく出たいんです。
スピリットのエネルギーが限りなくありますから、今、こういう出来事を目の前にして、愛が黙っていられないわけです。今こそ、愛が出たいのです。ですが、今までもっていたエゴが壁のようにふさがって、スピリットの代わりにエゴで表現しています。だからエゴではなくて、スピリットで素直に表現させてあげるチャンスが今、来ています。
スピリットにどんなものが詰まっていて、どんなふうに愛が出ていくのか、楽しみになさるといいと思います。そしてご自分の愛が出るとき、自分のまわりの世の中がどんなふうに変わるか、それもちゃんと見届けてごらんになったらいいと思います。
先ほどの病気の副作用もそうですね。今こそエゴを道具にして、スピリットのエネルギーが出たいというときに、自分では薬だと思っているものに取り囲まれていると、痛みとなって出ます。だけど、エゴで表現することをやめれば、スピリットも出てくるわけです。
スピリットにしかエネルギーはありません。怒りのエネルギーなどというものは存在しないということですね。
エネルギーはすべて愛で、自我がそれを怒りや悲しみ、恐れに変換しているということか。
怒りにエネルギーはないというのは、そういった発想がなかったので、とても驚いた。
これは一般的に言われるフィルターのたとえを、このエネルギーに応用するとよさそうだ。
自我はひとりひとりちがうから、ひとりひとりちがうフィルターを持ち、自己の内面から発せられる愛のエネルギーを、自我に通すと、怒りや痛みに変わると。
自我は愛を歪めて理解するが、エネルギーまでも歪めてしまうんだな。