先日、6~7年ぶりに会う友人が来福するとのことで、他愛もない話を楽しくおしゃべりしてきたのですけども。
「今、主軸になってるのはピアノ?」
って聞かれたとき、そんなに間を置くこともなく
「主軸は奥さん」
って答えてたんです。
そう答えたことが自分でも意外だったし、
その後感じた幸福感のようなものにも驚きました。
え?そうなんだ。私、‟奥さん”が主軸なんだ。
そしてそれがなんだか嬉しいみたいだ。
っていう。
奥さんって言っても、うちは子どももいないし、親と一緒に住んでるでもないし、ダンナさんは手のかからない人だし、家のことやご飯作ったりはするけどさほど比重を置いてるつもりもなかったし。
そんな風に思ってたけど、目に見える割合や程度はともかく、自分なりにすごく大事にしてるし、優先してもいる。ダンナさんと生きていくということを。
そりゃぁなんだかんだ言いながらも実家の片付け一緒にやるわけだ。
‟主軸”と聞いてパッと思いついたが‟奥さん”だった。
嬉しいが拡がったのは、それを素直に認めて表した嬉しさだったんじゃないかと思います。
仕事を聞かれていたら、また違う答になったかもしれない。
仕事がどんなに忙しくなろうと、たぶん主軸は変わらない。
主軸って聞いてくれてよかった。
気づいてなかったことに気づけたから。
その友人の前だからスッと表せたことだったかもしれなくて。
来てくれてありがとう!って思ってたし言ったけど、もう1回言いたい気分。
来てくれてありがとう!(笑)
こんなの当たり前 とか
こんのたいしたことない とか
こんなにやってるうちに入らない とか
こんなの主軸って言わない とか
そんな風に思うとき、外の誰かや何かと比べてる。
そういうの取っ払った時、何が残るだろう?
大事なことは、もう今すでに大事にしているはずなんだ。
自分なりの表し方で。
認めていないことにも気づかないくらい自然と認めていないこと。
だからこそ、それに気づくのは自分だけでは難しい。
周りの人たちの存在、起こる出来事というのはありがたいものですね。