阿蘇旅の終わりは電車旅。
行きは車で。
ダンナさんは仕事に向かったので、私は電車で帰ることにしました。
新幹線は使わずに、福岡まで4時間ほど。
車窓からどんな景色がみられるのか楽しみに、電車を待ちがてら写真を撮って遊ぶ。
宮地前駅にて。乗ることになったのはこれじゃなくて赤い電車でした。
ミラーへの映り込みが面白い。お気に入りの一枚です。
結果、乗った電車が窓ガラスが黒くて(汚れてじゃなくて色付き)クリアに外がみれないというオチ。
ではあったけど、阿蘇の山々に別れを告げて、しばらくは山間を進み…
だんだんと景色は見慣れたものに変わっていきました。
遠くに山が見えたり見えなかったり。
田んぼがあったりなかったり。
空が広かったり細切れだったり。
家々やビルが立ち並んだ町並みも。
初めて乗る路線。
初めて見る景色。
だけど、見慣れた景色です。
熊本を過ぎるころには、もう景色に興味がなくなってきたことに気づく。
と同時に、頭の中がうるさくなってきたことにも気づきました。
イコールそれまでは静かだったということ。
景色に飽きたから(今に居づらくなったから)なのか
それとも
目に入るものが増えて処理することが増えたからなのか
阿蘇の景色はほんとうに独特で、そのぶん、‟変化”として大きく感じたのかもしれないけれど…
「自然の中の物質世界」から「物質の中の自然世界」へ移動してきたような、そこに意図せず合わさっていく→いつものパターンに戻っていくかのような内側の変化。
こういうことが起きているのかと。
そのパターンをつかまえた=気づいた瞬間でした。
私たちは思っている以上に、周りの影響を受けて生きている。
環境、気候、人との関り、情報、時間、
見聞きし触れるもの…
‟思っている以上に”→意識しないところで
影響を受けないことを目指したこともあったけど、それってやっぱり難しくて。
受けて嬉しい影響もないことにしてしまうから。
都合の悪いものを排除したくなることもあるけれど、それもやっぱり難しくて。
だって「排除したい」が本当の気持ちではないから。
全てを把握できたらなと思ったこともあるけれど、到底無理な話でした。
把握することがやりたいことじゃないのだから。
だから、影響を受けても受けなくても差し支えない在り様でいようと思うようになりました。
差し支えがあっても差し支えない在り様。
受けていることに、起こっていることに気づいているという在り様。
自分の中で起きていることにでき得る限り意識的でいよう。
戻らないためにというよりも
感じたことをすーっと流していけるように
どっちにも美しさがありますね。
阿蘇の旅は思い出したいことを思い出させてくれたけど、
どんなのが好き?
今は何を楽しみたい?
それに尽きる。
起こることに意識的に
感じるものに素直でいることで
その先にどんな世界が広がっていくのか?
変わるものも変わらないものも。
そのときそこで感じることに、気づいているものであれますように。