自分を抑えることなく、あるがままで生きていきたいと思い始めたのはいつの頃だったか…
クレームのお手紙を某2社に出したことがあります。
「楽しみにしていたのにこんなことがあった」
「好きで使っていたのにとても残念な気持ちになりました」
そんなような話。
怒りをぶつけたいんじゃない。
これは利用者の意見なのだ。
改善してくれたら嬉しいけど、要求はしない。
ただ伝えたいだけなのだから。
「こんなもんだよ」「仕方がないよ」
そう自分の中に押し込めることなく、表に出すこと。
それが今、自分にとってのチャレンジであり一番の目的なのだから。
…いい迷惑だよなぁ。
そんなチャレンジに使われて。
ごめんなさいだけど、やってみて良かったと思ってるんです。
言いたくなる人の気持ちも、終わった後のなんともいえない気まずさを感じたことも含めて。
1社はお返事なくスルー。
もう1社はご丁寧に返信を頂きました。
お返事を頂けたことでこちらの気まずさまで解いてもらったようで、もう頭があがりません。
一生使い続けます!ってなったよ。使い続けるというほどではないけど今も使ってる。
そのときは「やってみてよかったな」というだけでした。
今わかること。
伝えたかったのはわたし自身に。
「こんな気持ちになったよ」
それを知って寄り添ってほしかったのはわたし自身に。
「そうか、そうか。そんな気持ちがあるんだね」
それでよかった。
それでもやっぱり相手に伝えたいと思ってのことだったら、また違う言葉の並ぶお手紙になってたかもしれないです。
ただ、あのとき私が本当にやりたかったこととはき違えながらもお手紙を出すに至ったということは。
私だけの学びだけでなく、先方にとっても何らか必要な役割を担ってたのかもしれないとも思います。(もし埋もれた1通の手紙だったとしても)
誰しもにとって、必要なことが起きている。
到底そうは思えないこともどうやらそうらしい。
だとしたら?
そのときしたいと思うことをする。
そして起こったことで何を感じるのか?
そこから何を望むのか?
こう書くとすごくシンプル。
本当は何がしたかったのかは、後からわかる。必ずわかる。
だから、そのときそのとき湧くものに素直でいること。
もしかすると、それが一番‟したいこと”なのかもしれないですね。