ファシリを担当していた3カ月のグループコーチングが終わりました。

 

その自己紹介シートに書いた「実現したいこと」の欄。

3カ月後に見たら、(ある意味)全部叶ってることに気が付く。

 

目に見える状況はほどんと変わってない。

変わったのは自分を見る目。

 

 

 

書いたことは感覚的なものばかりだったというのもあります。

これを‟実現したいこと”というのかは謎

 

だから、そうだって感じられたらそれでひとつのゴール。

 

もうやってるかもしれない。

それがささやかでも。

 

そんな風に自分を眺めてみたら

‟やってる”が目に入るようになった。

 

そしたら、

あ、やってるわって。

 

 

 

 

‟かもしれない”って偉大(笑)

 

頭での問答ではなくて、やってると腹落ちした。

 

ただこれ、人に言われたところでこうはならないです。

 

そんな風に思えない。

だからこそ実現したいと願ってるわけだから。

 

 

 

もうやってるかもしれない

もう叶ってるかもしれない

もうできてるのかもしれない

 

そう思えないとき、縛りがある。

 

「○○ってこういうこと」の縛り。

 

例えば

心地よく暮らすってこういうこと

やりたいことをやるってこういうこと

自分らしく生きるってこういうこと

 

って、言葉にするでもなく定義している‟こういうこと”。

そしてそれを今、自分はできていないと思ってる。

 

結構かたくなに。

かたくなという自覚もなく自然な感じで。

 

その縛りを解いてまっさらにしてみる。

すると、もうやってるかも?がスッと入る余地が生まれます。

 

じゃぁ、どうやって縛りを解くの?

 

☛ 自分のフィルターを疑ってみる

 

 

 

かたくなに信じてるのに疑えるのかっていうと…

私は疑えませんでした。

 

だからみんなの力を借りる場所に身を置くことになったのだと思う。

 

同じ話を聴いても、何を見るかが違う。

感じるものが違う。

だから面白いし、その人の魅力にもなる。

でも葛藤や苦しみの素にもなる。

 

何が起こってる?

何に気づきたがってる?

 

そんな視点を持ってみんなと過ごす中で、いつのまにか自分のフィルターを疑ってみることも馴染んできたのかもしれないです。

 

 

 

私はこう思った。

これが私にとっての真実。

私が感じたことが全て。

 

それはそうかもしれないけど、この価値観でいるとき、疑うこともなければ‟もしかすると…”を採用することもないです。

 

自分の感覚を信じるってとても大切なこと。

誰もが自分にとっての真実を採用していけばいいし、結局それしかできないけど、

 

自分=わたしたちになったらもっと広い世界を楽しめる。

 

 

 

 

もう叶ってるかもしれない。

やりたいことはやってるし

大事にしたいことはもう大事にしてる。

 

のだとしたら?

 

もっとどうだったらいい?

 

懲りずに問いかけていこう。

わたしたちに。