6月の朗読会本番が近づいて
おぼろげだったものがどんどん形になってきました。
どんなテーマにするか
本は何にするか
誰が何を読むか
音楽はどう入れるか
どんな順番にするか
などの大枠が決まって、
探り探り
読んでみる
音をつけてみる
合わせてみる
それを受けて、
もっとこうがいいあぁがいいと意見を出し合って
じゃぁどうしてみようこうしてみようを経て…
見えた!
今ここです。
ホームの稽古場に小上がりのステージまで(゜-゜!)
ステージへの出はけ、プログラムごとのマイク位置なども、動いて確かめて覚えていきます。
これはいいステージになる!
自信をもっておススメできる!
とはずっと思っていたけど、その確信が強まるというか高まるというか。
とても嬉しい瞬間のひとつ。
ただここに至るまで、どの段階にあっても
こんなのはどう?を出すところから
それに対して意見をもらったり言ったりしながら
この繰り返し。
出してみないと始まらない。
感じたことを、思ったことをお互いに表してみないと次に進まない。
より良い形に向かう‟次”に。
…のだけど、活動を始めた3年前は怖くて仕方がなかった。
だって、私はいいと思って出したものがみんなの‟いい”にはならないかもしれない。それってやっぱり悲しいし。
作り直しになったらめんどくさ…
自分が言われたくないのに言う側になんて回れない。
何か言って角が立ったらどうしよう。
生意気だって思われたらどうしよう。
そんなことを気にする気持ちもいっぱい。
でも、「いいものにしたい」気持ちにはどうしても勝てなくて。
怖いなりに、不器用なりに、
出してみる、感じたことを表すことをするようになりました。
スキルや経験値が及ばないと思っても
無難に収めたくなる考えに気づきながらも
自分の感じたものが全てではないと知りながらも
これと湧くものは出してみる。
なんでそれをするかっていったら、
「よりよいものにしたいから」
‟よりよいもの”
‟いいもの”
ってなんなんでしょうね?
こういうものって言葉にならずとも、
不思議と「この感じ!」が一致することがあります。
誰しもにとっての‟いいもの”とは限らない。
でも、誰しもどこかで知っているのだと思う。
自分たちの、そのとき出せる、‟一番いいもの” を。
生まれるべくして生まれるそれに
出会いたいのなら
分かち合いたいのなら
伝えたいと思ったことを伝えること
伝えてくれたものを受け取ることを
避けてる場合じゃないのです。
関わるみんなの肩を借りて、そんな(こっそり)ぶつかり稽古のようなことをしてきたなぁと振り返ってました。
ぶつかりにいった先にあったのは
受け止めてもらえる温かさと
見たいものに近づいてく楽しさ
それと、
自身の中に湧くものを他でもない自分が信頼する清々しさでした。
稽古はやってなんぼ。
こんなこと言ったら…
こんなこと言っても…
そう押しとどめていること。
これくらい気にならない。
別に何も私がそれしなくても。
と思いながらうっすら気になっていること。
まずは自分がそれに気づくこと。
そのとき湧くままに委ねて、できるところから表してみよう。