私は元々、言葉で気持ちを表現することがとっても苦手です。

 

表しきれないことのはがゆさやもどかしさ

 

不安や焦りの衝動が強い音になって出ては、もっと違う言い方ができたらよかったのにと反省したり

 

無難にすまそうと相手に合わせるわ、言葉をのみこむわ、平気なフリするわで、心が渇いていったことも。

 

それがツラかったことにも気づけずに、言葉を発することにも人と関わることにもとても閉鎖的になっていた時期があります。

 

 

 

今もそういうときがあるけれど、圧倒的に違うのは、

それが起きているとき、それが起きているとわかっていること

 

あぁ今、焦る気持ちがあるなぁ。

あぁ今、不安をどうにかしたがっているなぁ。

あぁ今、伝えたがっているなぁ。

あぁ今、どーでもいいって思っているなぁ。…(笑)

 

そこから、今ここで何を大事にしたい?に従って、表したいと思ったら表す。

 

どう伝わるかわからないけど、とにかく感じているものを言葉にしようとすることをするようになりました。

 

それは、言葉にしようとする関わりの中にある温かさを知ったから。

 

 

 

言葉にしようとするって、すごくパワーのあることだと思ってます。

 

自分自身に対しても、周りとの関係の中にあっても。

 

結果、わかる言葉にならなくてもいい。

そのときの精一杯で表そうとすること。

 

そこから始まるコミュニケーション。


それってどういう感じ?

それってこういうこと?

私はこんな風に思ったのだけど?

 

お互いの言わんとすること、観たがってるものを一緒に感じに行こうとする。

結果、一緒と感じられなくてもいい。

感じられたらいいなと思ってますという、コミュニケーション。

 

それってすごく温かい。

 

発する側としては

感じて表したいと思った自身の気持ちに応える温かさ、

受取る側としては

表そう、伝えよう、っていう相手の気持ちそのものの温かさ、

それが通い合うのだと思う。

 

 

 

とはいえね、本当に伝えたいことが伝わるに越したことはない。

表現の精度は上げていけたらいいなと思うけど、私はもしかしたらこの先も苦手なままかもしれないです。

 

言わなくてもいいことをそんなことがしたいわけじゃない音で発したり、ほんとは言いたかったことを押さえ込んだり出す機を失ってしまうことは、きっとこの先もあるのだろう。

 

それもきっと、起こるべくして起きている。

 

それでもお互いに表したいものを表そうとする、そうして共にすごす時があることが、今とても嬉しいです。

 

 

 

本音に触れられたらうれしいけれど、本音かどうか?のジャッジよりも、本当の音を発したい、聴きたい、そこに生まれる関わりそのものが尊い。

 

もらった温かさを、私も渡していけるように。

自身の中に湧くものや、表したいという動きに、できるだけ素直でいようと思います。

 

それもきっと、起こるべくして起きているものだから。