自慢じゃないですが…

人と比べるしんどさはいっぱい味わってきました。

 

 

小学校入ったくらいからでしょうか。

かわいい子やスタイルのいい子に憧れたし

中高生時代は彼氏がいる子に憧れた。

 

何ができる・できないというより

容姿や性格にコンプレックスを感じることが多かったです。

 

かといって、かわいくなるために何かすることもなかった。

どうにかなるものでもないって、あきらめてたんだろうなぁ。。

 

けど、心の奥底では、こういう私をいいって思ってくれる人がいるはず!って王子様を待ち続けていたような気もします。

こういう私がどういう私かわからないけど36歳で出会いました。

 

 

 

働き始めてからは仕事ができる人に憧れた。

人柄とか、人との関わり方に対して素敵だなと思うことが増えました。

 

これは 頑張れば自分もそうなれる! と思ったのでしょうね(笑)

 

見よう見まねでしてみたり、

それでできるようになったこともあったけど

‟憧れたあの人のように”にはほど遠く感じて凹むこともいっぱいありました。

 

 

 

起業しよう!となってからは

うまくいっているか・いってないか

というモノサシを持つようになりました。

 

私が持った‟うまくいってる”のモノサシは

依頼数や収益、人脈といった数の多さ。

 

きらびやかさは目指してなかったけど

そういう姿に‟うまくいってる”感を見てたのも確かです。

 

 

 

あぁ苦しい…

書いてるだけで苦しい

他にもいろいろ出てくる(~_~;)

 

‟同じ”では起こらない。

違いがあること、比較することで生まれるしんどさ。

 

…って思ってたのですけど。

 

 

 

当時していたプロフィール作成でみんなの人生に触れているうちに、それぞれに違いがあることのおもしろさも感じるようになりました。

 

それぞれ今にたどり着く道のりが違ってる。

 

使うツールは同じでも込められる想いが違ってる。

 

似たような想いを持っててもそれの表し方が違ってる。

 

比較するものがあることでそれぞれの違いが引き立つ。

 

なんて素晴らしいんだろう!って。

 

 

小さい花も大きい花も

 

 

違いをみてしんどくなったり

違いをみて感動したり。

なんなんでしょうね。

 

違いがあることに罪はないみたい。

 

優劣や好き嫌いをつけるのだって悪いことじゃない。

比較するものがあることで、自分の‟今”や行きたい方向、好みがわかったりもするのだから。

 

違いを比べてそこに自分の価値をくっつける。

嫌われた、劣っている、認めてもらえない…

「そんな自分はダメだ」を持ち続けることがツラい。

 

これじゃダメだ! が起爆剤になって好転することもあるけれど、

それが今度、こうでいなきゃダメだ! になるのもまたツライ。

 

 

 

だから、今、選んでみる。

 

‟違い”に何を見るのか?

 

 

 

身の回りにある、

違いがあることのおもしろさや恩恵を

もっともっと愉しんでみよう。

 

だから私たちは別々なんだ。

だから私たちは別の道を歩いているんだ。

素晴らしいねって感動していたい。

ともに生きていることを喜びたい。

 

そっちを選んでみよう。

 

 

 

そしてお互いの道が交わるところで、

私はこんな風な景色を見ているよ

私はこんなことを感じたよって

話ができたらいいですね。

 

なんか凹むわーと感じるならそれも含めて。

 

それがまた、お互いの世界を濃ゆく広げてくれる。

 

素晴らしいな は 素晴らしいね になるのです。