このブログ、「本当の音が響くとき」なるタイトルをつけていますが…

‟本当の”って? について今思う所を書いてみようと思います。

 

 

…といいつつ言葉にしようとするとよくわからなかったりします。

ひとついえるのは、‟本当の”と出会うとき、それだとわかるのです。

 

 

あぁ、こういう想いがあったのか。

あぁ、それが言いたかったのか。

と、身体でわかる。

それを、‟本当の”という意味で使っています。

 

 

 

 

ただ、そこにたどりつくのに「今これが本当だ」と思うあれこれが入口になっていたりするのです。(ダミーの願いとも言われますね)

本音でしゃべってるつもりだったのに「本音で話をしよう」と言われて、(゜-゜)? ってなったことがあります。

 

 

今思う本当。それらを表しながら歩いていくことで、扉を開く準備ができる。そんな感じなのだと思います。

そして、‟本当の”にたどり着いたと思ったらその奥がまだあったり、‟本当の”はひとつじゃないことも。どれも本当。

 

 

だから、‟本当の”にこだわることはないのでしょうね。

こじあけて力技でわかりにいくものではないし、わかるものでもない。

こだわることもわかりにいくこともないけれど、耳を澄ませていたいと思っています。

自分にも、関わる人たちにも。

 

 

本当はどんな想いがある?

本当はどうしたい?

 

 

問いを持つから、答が現れる。

現れたときそうだと‟わかる”のです。

 

 

 

 

本当の音云々に限らず、関わり合うときは何かしら曲が奏でられています(比喩です)。

ただ、響き合いをそこに感じるとき、名曲を聴いた後のような余韻が残る。そこにはまぎれもなく本当の音がある。

 

 

そういう私自身がいつも本当の音を奏でているかというと…そう在れたらいいなぁと思いますが残念ながらままならないこともいっぱいです。

 

 

それに、自分の‟本当”はわかっても、人様の‟本当”はわからない。

あくまでも扉を開くのはその人自身。

ただ、一緒に扉を開けにいくこと、想いを尊重しながら一緒に進むことはできます。

 

 

言葉足らずなことや、‟本当の”に程遠い音を出すこともあるかもしれないけれど。

そのときそのとき奏でられるものを楽しみながら、「本当の想いを表していく」という同じ方向に向かって、‟本当の”に耳を澄ませながら奏で合っていけたらいいなぁと思っています。