2024年、年明けて立て続けにいろいろなことが起こりました。

 

 

被害が少しでも小さくすみますように。

最中にある方々が心身・環境共に、少しでも早く落ち着きを取り戻せますように。

 

 

そう願いながら、願うしかできないというのももどかしいもので…

石川方面にお住まいのあの人この人の顔を思い浮かべては、大丈夫?と連絡したくなる気持ちを抑えていました。

 

 

気になってるのはもちろん本当。

でも、安否を確認することで自分を安心させたいだけの気持ちうっすら垣間見えて、

「まずはお前が落ち着けよ」

と、自分の面倒と目の前のことに集中していたのでした。

 

 

 

 

こういうとき何か力になりたいという気持ちや、どこかしら落ち着かなさを感じるのは至極真っ当なことだと思う。つながってることの証でもあるというか。

 

 

ただ、その表し方は千差万別。

 

 

「無事を願っています」という言葉を添えること。

役に立つであろう情報をシェアすること。

こういうときだからこそあえていつも通りでいること。

現地での具体的支援に備えて動き始めること。

募金をすること。

ただただ祈りをおくること。

不安に覆われないよう自分の機嫌をとること。

今回私は抑えたけれど、無事を祈るメッセージを送ることだってそう。

 

 

動きとして見える見えないに関係なく、どれもが想いの表し方。

 

 

目に見えることのほうがなんかいいような気がしたり

伝わってこそ、わかりやすく役に立ってこそなんぼのことと思ったり

どれが正解かわかりたくなることがあるかもしれないけれど

どれもが想いの表し方。

 

 

私たちは自分が知るより多くの思いやりと祈りの中で生きている。

 

 

そんな想いの数々に触れていると、こちらまで癒されてしまうのだよなあ。

 

 

 

 

SNS上はいつもにも増してかいつも通りか(?)情報に溢れてて、みんな自分の思う所を発してる。

「あれがいい」だけでなく、「これは困る」も。

 

 

その「これは困る」は、いつか誰かが思いのままに動いたから現地の声としてわかったことでもあるのだから…

 

 

結局いつだって(動かないということも含めて)思いのままに動くことしかできないのだから、

思いのままに

思いのままに

想いを表そう。

 

 

そしてそこから起こることから何を受け取り学ぶのか?

今年もそんな視点を持って生きていこうと思います。

 

 

生きていこう。