「自分を好きになるのは一生ものの課題だな」

と、学生の頃に思っていた記憶があります。

 

 

好きになるために何かしようとしたことはなかったけど、好きになれたらいいなぁと思ってた。

 

 

 

 

「一生かからずに好きになれました」

と思ったのは30代後半。

 

 

「好きになれたと思ってたけど条件付きの好きだった」

と気づいた40代前半。

 

 

こういうことができる私

こういう気持ちでいられる私

こんな風に思われる私

は 好き。

 

 

すると、

こういうことができない私

こういう気持ちでいられない私

こんな風に思われない私

は 嫌い。が、出てくる。

 

 

その色濃いコントラストに耐えられなくて、嫌いな自分、認めたくない自分をなんとかしたくてしょうがない。そしていろいろ試みました。

 

 

そしてちゃんと、なんとかならないところに戻ってくる。

 

 

自分のこと好きじゃないな~って思ってた頃の方が、もしかしたら楽に生きてたかもしれない。

 

 

 

 

そんなこんなで40代後半の今はというと、

「総じて自分が好きです」

 

 

好きも嫌いもあるけど総じて自分が好きです。

嫌いと思っている自分も。

なんとかしようとすることがある自分も。

好きというか許容ともいうのかもしれないです。

他のナニモノになりたいとも思わないという意味で。

 

 

これが、あの頃の自分が願った

「自分を好きでいるってこういうことか!」

のゴールかというと、そうでもないような気がしています。

 

 

ゴールかと思えばスタート。

わかった!と思っても、わかってなかった!がやってくる(笑)

新しい世界が開けていくから。

わかる、できる、に固執しない世界が。

 

 

 

 

どうやってそういう私になったの?と聞かれたら…究極、

「生きてきたから」

ってことになる。

 

 

私にとって一番効いたなと思うのは「自分の話を聴いたこと」で、今もそれは続けてます。でもそれだって、あんなことやそんなことがあっての‟それ”かもしれなくて。

 

 

「空回り」「遠回り」「迷走」「模索」「怠惰」「勘違い」

見ようと思えばそんな見方もできるし、他ならぬ自分で自分にそういう言葉をかけてきた。あの頃その頃の私が生きてきてくれてよかったと思う。

 

 

生きていて目に触れるもの

耳に入ってくること

そのとき湧くもの

やりたいと思ったこと

なんかやってしまっていること

そういうことの全部全部が、私が活きるよう生かしてくれている。

 

 

だから、最初から「これ!」という正解を探そうとしなくてよいし、正解を探したくなるならそれもそのときする必要のあることなのかもしれないです。

 

 

 

 

自分を好きになりたい。

そんな風に思うんだっていうそのときを生きる。

 

 

なんだそれ?なんの解決にもならないじゃん!

そんな風に思うんだっていうそのときを生きる。

 

 

ほんと、なんだそれ?だよね。

って思う今を私も生きてみようと思います。

 

 

自分を好きとか嫌いとか関係なさそうなところにいる人

もといワンコ載せときます。