このところ「よかったね~」がマイブームです。
そう思おうとするでもなく湧いてくる。
気付くと言ってる。思ってる。
他人にも自分にも。
これまで、理解できない誰かの喜びや不安には
ふーん
へーー
っていう冷めた反応になることも多かったし
(もしくは嫌われないためのよそゆき対応)
そういう自分は優しくないなと思ったりしてた。
自分ごととして理解・共感できることに対しては
"同じ"と思えることがすごく嬉しくて
そのぶん同じじゃなくなることが寂しくて
落ち込んだり嫉妬したりもしていた。
そんな風に長年生きてきたし
そういう自分を変えよう!
ってしたところでできなかったのに。
何が起きてるのだろう?
よかったね~って思うけど、
"自分のことのように"な時もあれば
ちょっと違うときもあります。
もし同じような体験をしたとしても
あなたのようには感じないかもしれない。
でも、
嬉しい
楽しい
ホッとした
なんか良かった
その感情はわかる。
よかったね~
悲しい
寂しい
怒りがある
怖い
なんか不安
その感情はわかる。
そうなんだね~大変だったね~
子どもたちが笑いながら走り回ってて
何がそんなに楽しいのかもうわからないし
同じように走り回りたいなんて思わないけど
「楽しいんだね。良かったね」
って思うのと同じような感じかもしれないです。
出来事から何を感じるか?
何を喜んでいて何に怒ってるのか?
そこに共感や理解ができなくても
起こった感情のことはわかる。
それは私にもあるものだから。
そう受け取るようになったのはなんでかな~と振り返ると
やっぱり、本当の気持ちがどこにあるのか?
自分が感じているものをみようとし続けてきたことかなと思います。
強がっていても不安だったり
弱ぶっていても怒っていたり
笑っていても傷ついてたり
充実してそうでどこか空虚だったり
なんてことない風でいてすごく喜んでたり
やってらんない!と言いながら楽しんでたり
これも感動なのかと認めたり
見ずに通り過ぎてしまっていたこと
言葉になることには表れない
本当に感じていることを目にとめて
そんな風に思ってたのか~
楽しかったんだね~
嬉しかったんだね~
良かったね。
不安なのか~
怒ってんなー
そうなんだね~。
自分に向けてきたそれが
自然と他人にも向くようになった。
自分の内側が外側に現れるって本当です。
共感や理解ができなくても
その自分を否定することなく
抑えて歩み寄ろうとすることもなく
相手を変えようとすることもなく
どちらが正解かを証明しようとすることもなく
感じているものに対して心の通い合いが生まれるって素敵なことだと思う。
よかったね~が出てくるとき、ふわ~っと胸のあたりが広がって温かいのが気持ちいいです。
その気持ち良さがまた、次の「よかったね~」案件を連れてくるような。
誰かを通して感じる「よかったね~」は
自分自身への「よかったね~」に還ってくるようです。
↑ダンナさん撮影
素敵な写真撮れたね~というより
嬉しいんだね~に、よかったね~なのでした。