"正位置に"なんていうと堅苦しいだろうか?
角角とした言葉の雰囲気と裏腹に
そこにいるときはとても自由を感じる。
自由を感じるからそこにいるとわかるともいう。
そこにいないときはたいてい
やらなくていいことをやり始める。
それがやらなくていいことだって
その時はわからなかったりもして。
むしろ良かれと思ってやっていることのほうが多いのです。
そこにあるのは
不安だったり寂しさだったり怖れだったり。
ただ話をしたいだけだった
ただ話を聴いてほしいだけだった
ただ未知の不安を感じてただけだった
ただそんな自分を認めたいだけだった
…etc
のに
あのときこうしてくれたら
あの人がもっとこうだったら
何かもっと力になれたら
こういう環境になったら
こんな風に進めたら…
そう尾ひれをつけて
その解決のために頑張りだしたり
安心の枠を作りこもうとしたり
誰かの何かをどうにかしようとしたり
起きてもいないことに頭の中が支配されるとき
私はわたしでなくなっている。
そういう状況をなんとかしたくて思いつくことは、たいていやらなくてもいいこと。
ズレているから自分の範囲外のことをしだすんだ。
ただ、ほんとうの願いに耳を澄まして
その気持ちに素直にいようとすること
そして湧きおこるものを感じて流れるままに居られたら良いのに。
苦痛がずっと続くとも限らないのに
…と、頭で知っていてもそうできないというときもあるものです。
そんなこんなを通した果てにズレていたとわかる。
どこまでもすべては今の自分に起こるべくして起きている。
何が自分のの正位置で
何をもってズレなのか
知っていても知らずにいても
人はどのみち自分の場所に戻るようになっている。
自分の場所で生きることを、奥の奥で望んでいるしわかっている。
…って、なにげにすごいことだと思ってます。
だから何度でも戻ればいい。
ズレないことを目指さなくていいですね。