ダンナさんの実家の片づけをちょこちょこ続けています。

 

 

業者さんにお願して片付けてもらっても良いのだけど、ダンナさんは少しずつでも自分たちでしたいという。

 

 

この量全部?マジか…という量です。

育った家だし思い入れもあるのだろう。

仕方がない。やるか。

 

 

そう思ってたのですけど、自分でやりたいと思っているのは私でした。

 

 

正確に言うと、それが"せめてもの自分にできることだから"みたいな気持ちから。

 

 

 

 

もーなんでこんなに取っておいてるんだろう⁈ 

と半ばあきれつつも、50年が詰まったものをひとつひとつ開いていくと面白いこともあります。

知らなかったお義父さんやお義母さんと出会ったり、ダンナさんのこれまでに触れられる感じがしたり。

 

 

とはいえ、どうしてここまで時間とパワーを使って私は片付けをすることになってるんだろう?

ほんとにここに掛けたい?

片付けを通して私は何をしたいんだろう?

 

 

そんな風に自分をみてみると、出てきたのは"罪悪感"

 

 

 

 

片付けをしてて感じるのは、お義父さんの寂しさ。

実際お義父さんがどうだったかはわからないけど、私の中にある寂しさがすごく反応するのです。

 

 

寂しかったろうなぁ…

寂しいなぁ…

と、思う私といっぱい出会う。

 

 

そこから罪悪感に派生する。

寂しい思いをさせてしまった

もっとできることがあったんじゃないか

それを償うかのように、その想いを祓うかのように、片付けをしているなぁと。

 

 

だから、自分でちゃんと見なきゃいけないように仕向けてた。

業者さんに頼んで「はい終わり」にしてはいけない理由は、それをしてしまったら償えないから。

 

 

"ダンナさんが自分で片づけたがるから"

ではなかったのですね~…(遠い目)

 

 

 

 

でも、その罪悪感いる?その償いいる?

お義父さんが実際寂しい思いを抱えてたとしても、それを背負う必要ある?

 

 

お義父さんはそこに居たくて居続けたのかもしれない。

お義母さんや、家族との思い出の中に。

それがそのときのお義父さんの幸せで、それがお義父さんの愛の表現だったのかもしれない。

それも全然違うかもしれない。

 

 

でもきっと、お義父さんはお義父さんとして、好きなように最後まで生きたんだよな~…と思ったら、それこそ何か祓われたように心が軽くなりました。

 

 

 

 

亡くなって1年たって、お義父さんが手放すことを許せたのかもしれないし、

私が「もう充分だよね」と納得できたのかもしれないし、

この時間を通して納得できたのはダンナさんかもしれないし、

どれもそうかもしれないし。

 

 

こういう、誰の想いかわからないようなことを自分の想いとしてること、それを背負ってることって、結構ある気がします。

 

 

現在、過去、未来、たくさんの関係性の中で今の自分ができあがっている。

とはいえ、そのたくさんの関係性をひとりで背負おうとすることなんてなくて。

それぞれの立ち位置で、みんなで幸せを味わっていけたら素敵だなと思う。

 

 

それぞれの立ち位置で→正気に戻ろうということ。

 

 

 

 

片付けはこれからも淡々と続くかもしれないし

思いがけずトントンと進むかもしれないし

それはわからないけど。

 

 

罪悪感からの自分への罰や

背負い込もうとする気持ちからではなく

これからは正気で進められそうです(笑)

 

 

 


何が起きてるんだろう?

私は何を起こしてるんだろう?

私は何に気付きたいんだろう?

そう自分を眺めるとき、すべてがギフトになる。

 

 

気付く必要があった。

気付かせてもらえて良かったです。

 

 

スッキリした棚の上で遊んでみました。

思いがけず楽しい場所になった件。