2011.03.11 私は東京にいて
(神奈川県の登戸で一人暮らしでした)
帰宅困難者といわれる状態になり、都庁の1階でもらった段ボール敷いてしばらく過ごしました。
深夜1時過ぎ?
小田急線が運行を再開してくれて帰宅。
次の日は確か遅番出勤で、少しでも休めて良かったと思った記憶があります。
食べるものにも困らなかったし、家も仕事もいつも通りできる環境にあった。
とはいえあきらかな非日常。
そんな中いつも私の頭の中をよぎるのは
被災地のひとたちに比べたらなんてことない。
余震にビクビクしながらも、意外と私平気だな
意外と強くできてんなって思ってたのですが…
支援物資の仕分け作業を手伝いに行くつもりだった休みの日。
家を出ることを思った以上に怖がってる自分に初めて気が付いた。
結局ボランティアには行かなかった。
自分のことで精一杯だったのでした。
怖かったんだな~
そう気づいてもまだ思ってました。
「東北の人たちに比べたら、私がこの状態で弱音吐くなんて100万年早い」
いや、そうだろうよ。
想像することしかできないけどきっとそう。
でもそうじゃないんだよ。
怖いもんは怖いでいいんだ。
弱音でもなんでも吐いたらいい。
ほんとの気持ちを。
少なくとも自分だけにはさ。
何もできない、せめてもの気持ちの表れとしての‟我慢”だったのかもしれない。
そういう表し方もあるのだろうけど…
これって相手を思っているようで自分を守ってたりもする。
「我慢するから何もできないわたしを許してください」
誰に許しを乞うているのか?
そんな罪なことだろうか?
そもそも何もできないって本当?
自分でも思いがけないことで、巡り巡って誰かの何かになることってある。
自分の本当の気持ちを知っていること、それを尊重しようとすることは、自分ではない誰かの本当の気持ちを尊重しようとすることにつながってる。
だから、我慢はもうしなくていい。
というか、我慢することがあってもそれに気づけたらいいなと思う。
その我慢は何かを大事にしようとしていることの表れでもあるから。
そして、本当はどうしたいか?
自分と話ができたらいい。
311になると思い出すことです。