幼い頃、家族で出かけた帰りの車で、よく月を見ていました。
満月に感じる王様感は特別。
でも三日月のシュッとした姿も魅力的。
半月やそこから膨らんだフォルムは、なんだかぼやけて見えてスルー(笑)
新月にいたってはもはや月として認識できないもの。(新月の概念もなかった)
月はいつも同じ形で宇宙に存在してる。
地球から月を「そう見ている私がいる」ってだけ。
まるで一つ一つが別物のように見てました。
UnsplashのCHUTTERSNAPが撮影した写真
次第に月を見上げることもなくなってきて
欠けてる、足りないと落ち込んでみたり
何か付け加えなきゃとがんばってみたり。
これができるようになれば
こういう部分が変われば
そのためには…っていうことをいっぱいやってきた。
振り返って見れば、
満月に完全さを見て憧れて
こうなれば私は満月になれる!!
とでも言わんばかりの様相。
満月になるも何もそもそも月は月なのに。
欠けてる、足りない
今の自分を「そう見ている私がいる」ってだけでした。
満月の王様感って
全部が現れた「存在の美しさ」
なんだと思う。
私たちは知ってる。
そもそも全部あるってことを。
そのうえで遊んでるのかもしれない。
完全な○とは違う自分でいることを。
だって三日月も魅力的じゃない?
おもしろがってるのかもしれない。
満ち引きの中で見え方の違いを。
そのときいろんな自分を、いろんな世界を知れるから。
そんなことは思いもよらずに満月になりたがった私の目には、「そもそもまるい月である」ことを見せてくれるたくさんの人の言葉や姿が映ったけれど、そうはいっても「そもそも私はまんまるお月様でした」なんて思えなかったなあ。
思えないまま足掻くことも含めて生きていると、ふと気づく。
溺れてるつもりが足底がつく深さの川だったみたいに、欠けてるつもりがそもそものまるい月だったことに。
何かを埋めようとしたり、欠けを感じて心がざわつく。
そんなときは今でも静かに月を見上げてみます。
あるものをあるとして認めたくないのは、どうしてだろう?
それを認めてしまったらどうなると思ってるんだろう?
あるものはあるものに。ないものはないものにできてしまう。(ほんとはあるけど)
私たちの意識のパワーというのは、どうやらそういうものらしいです。
自分は自分の存在まるごとで美しい。
美しいなんて思えないそれさえも含めてどうやら美しい。
「そう見ている私がいるだけ」
で生きてみるのもいいかもしれないです。