顕正会員が少しでも気づく契機になれば嬉しく思います。初回はちょっと世法のことを切り口にしてみました。
顕正会では、私はI元壮年部長と同様に仏敵で罰で死去したことになっていると聞きましたが、そうやって会員の目と耳を塞ぐ顕正会という組織の癖はいつものパターンだなあ・・・と思うと同時に、とても嬉しく感じています。
今こうして文章を書いているということは健在だという証拠ですが、同時に返す刀で、顕正会では知り得ない沢山の御法門や文証は勿論のこと、実は顕正会が小さい殻に閉じこもって世の中を救っているつもりになっているということが分かる道理と事例を別の投稿にて述べていきます。
先ず今回は、顕正会の組織運営の中での身近な話を題材にします。
顕正会幹部であれば知悉している「組織や役職を飛び越しての連絡はしてはいけない」という点に関わる内容です。
私は病院や診療所などの医療機関や介護・福祉施設等を全国で経営しています。
そして、仏国実現という大事を常に念頭に置き、世のため人のための事業の永続発展を志しています。
事業展開が大きくなるに連れ、永続発展のためには組織構築が非常に重要になってきます。価値観・理念やビジョンをベースに、特定の人に依存することなく人が変わっても存在し続ける組織を構築していこうとすると、経営学、心理学や社会学、加えて組織論という概念を用いる場面が出てきます。
その際、顕正会の組織運営の時ほど厳しく制限するものではありませんが、「役職や組織を飛び越しての連絡には注意が必要である」ということは結構重要です。
平易な例で言えば、役職の無い一般従業員が係長を飛び越して課長や部長に確認・連絡・報告をすることが日常的に行われたとします。すると組織が組織の体を為さなくなります。役職自体の意義も失われて責任と権限が曖昧になることで、プロジェクトは進行せず、事業体も崩壊しかねません。1+1=2以上の10、100、となるような組織の力というものが働かず、結果的には心がバラバラになってむしろ、1+1=1、いや0.5、0.1になってしまうという事態に陥る危険性が出てきます。
さらに、そういう視点自体を持っていない場合には問題発生の原因を発見できず、様々な手段を講じても効果が出ません。
こういうところでは民主的と言われる方法論は却って良くない場合も出てきます。権利だけを主張する無責任な状況が発生する事もあります。集団の構成員の質にも影響を受けますが、自由の勘違いから起こる道理の通らない無責任で自分勝手な、突き詰めれば三悪道の組織になってしまいます。
現代は末法濁悪。そこは顕正会員も共通認識ですから、推してはかるべしです。
実際に、これまで多くの事業を引き継いできた中で、破綻決定路線に陥っていた経営危機の病院等をいくつか改革してきましたが、概ねそういう部分に根本的原因があったと考察しています。
次元は異なるものの、本質的には世法に於いても志と異体同心が大事であり、また、組織内の指揮系統の筋目は非常に重要です。
さて、話を戻します。では、こういう組織論からの視点、顕正会の姿に当てはめます。すると、下記のことが事実として判明します。
顕正会内では組織の指揮系統を非常に重視していますが、
顕正会が日蓮正宗の信徒団体だった時には、その組織内の指揮系統には従いませんでした。
その自己矛盾はどういうことなのか・・・。
世法上であれば、まさに組織全体の発展を妨げるだけでなくその存在を危険にさらす問題の人物または部署。獅子身中の虫ということになります。仏法では破和合僧に当たりますよね。
日蓮大聖人は、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」《一代聖教大意》と御教示されています。
また、この御文について
総本山第二十六世日寛上人は、
「宗祖の云わく『此の経は相伝に有らざれば知り難し』等云々。『塔中及び蓮・興・目』等云々」《撰時抄愚記》
と仰られています。
日蓮大聖人の仏法の深意は、第二祖日興上人、第三祖日目上人以来の相伝によってのみ知ることができ、ここに仏法の功徳が流れることを御教示くだされているのです。
では、顕正会浅井会長はどんな立場でしょうか?『相伝』の対象でないことは自明です。ここを自らはどう捉えているのか不明ながら、少なくとも会員には認識されないような仕組みで顕正会を運営していることは間違いありません。
顕正会と創価学会、顕正会員にとっては異なるように見えるでしょうが、本質は同じです。過去の歴史にもそのような似て非なる異流義団体は同様だったようです。この『相伝』を無視しています。大聖人様直結信心になっているのです。
このことも、第二祖日興上人が下記のように御示しくだされていますが、当然顕正会では全く耳にもしないでしょう。そもそもが顕正会員は日蓮正宗の教義については塵ほどしか知らされていませんから聞いたことのない御指南だ・・・となるのは当然です。
このような御指南は他にも沢山ありますが、ここまでズバッと仰られていると、屁理屈しか言えなくなってしまうのです。創価学会も触れないようにしているようですが、顕正会としても相当都合が悪くなります。
《日興上人・佐渡国法華講衆御返事》
「この法門は、師弟子を正して仏に成り候。師弟子だにも違い候へば、同じく法華を持ちまいらせて候へども、無間地獄におち候也。うちこしうちこし直の御弟子と申す輩が、聖人の御時も候しあひだ、本弟子六人を定めおかれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言はせんずるためにて候。案のごとく聖人の御後も、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申すやから多く候。これらの人は謗法にて候也。御講衆等この旨をよくよく存知せらるべし」
《歴代法主全書1巻183頁・・・ちなみに私はこの全書、全巻所持しています》
師弟相対の大事について、現代語訳が要らない程とても平易に明確に御指南されているのがわかります。
日興上人が「自分は大聖人様の直弟子だ」という人達をさして、それは謗法であると誡められているのです。
「自分は大聖人の直弟子だ」と言うことは、実際には「自分は大聖人の直弟子だ」という言葉を隠れ蓑にして勝手な信心をしようとしていることに当たるのです。
顕正会に当てはめれば、「大聖人様の御命令を信心の耳で聞き奉る」=「自分は大聖人の直弟子だ」という言葉を隠れ蓑にして、かつての妙信講の認証は日淳上人から頂いたものだという経緯を軸に過去の日蓮正宗を尊崇する姿勢で以て現在の日蓮正宗を否定しているのです。加えて、いつかは正しい御法主上人が御出現するからそれまでの非常事態だという体で、いかにも大聖人様の御心に叶うのは現在は顕正会しかないという様に見せているのです。誑惑とはまさにこのことではないでしょうか。
いずれにしても、顕正会でも師弟相対という言葉を使いますが、論外だということになります。事あるごとに浅井会長に対する師弟相対がそのまま大聖人様に通じる・・・等と指導されている、あれ、とんでもない大謗法だという答えが導かれてきます。
そもそも浅井会長の師匠は誰なのでしょう?仏様ではないのに自ら悟ったということはあり得ませんよね。
そもそも浅井会長は誰から大聖人様の信仰を教示されたのでしょうか?
会長自らは師弟相対をしていないのに、会員に対しては自らへの師弟相対を求めるという、邪なすり替えです。まさしく、大聖人様から会員の命自体を根本的に遠ざける魔の所業です。
大聖人様への信仰心が本当にあると言うならば、真面目な顕正会幹部の浅井会長に対する伏せ拝んで信じ従う姿勢の如く、浅井会長自らこそが師弟相対の信仰の姿勢を見直し懺悔し改め清算せねばならないのです。さらには、同じく大聖人様への信仰を有するはずの会員を抱える会長としてそうすべき責任があるのです。
顕正会員が師弟相対をしている対象は浅井会長です。「師は針の如し、弟子は糸の如し」という理は善悪に通じ、いわば浅井会長の結界の様な器の中からは出れない状況に陥っています。すなわち、そのすり替え・偽物の師弟相対によって、本当のことを全て正しく観ることができていないのです。
よって、純真・真面目に大聖人様を信じているのであれば本来はわかる当然の道理ですが、純真・真面目であればこそ理解不能で受け止められないに違いありません。
しかし、きっとこのブログを見るほどの縁ある人であれば、これが契機となって気づくことになると思います。浅井会長の針から抜けて結界の様な器から出て師弟関係を解消し、正法に目覚める時が必ず来るでしょう。
私もそうでした。様々なことから顕正会を疑い疑おうとする心を「心の師とはなるとも心を師とせざれ」との御金言を胸に自己説得し、疑いを捨て疑おうとする心を戒めながらも、成仏という大事を見つめて「大聖人様、どうかどうか御心に叶う信心に立たせていただきたい・・・」とひたすら祈り続けていました。すると数年を経て顕正会の誤りを確信することになり、そして一歩を踏み出し、今日に至っています。誠にありがたいことに、導いて頂いたと強く感じています。
初めての戒壇の大御本尊様の御開扉の際には涙と嗚咽で声にならないような唱題でしたが、「顕正会員が一日も早く目覚めますように」と祈った事をあたかも昨日のように想い出します。
私たち百貫坊信徒は、御住職で大石寺主任理事の佐藤日学御尊能化から、「大聖人様の大慈大悲は、全ての人に注がれている。心を開いているか開いていないかの相違なのである」との御指導をいただきます。私も顕正会員の皆さんよりも一足先に心を開く事が叶い、正法に目覚めることができました。顕正会から離れて年数を重ねる度にありがたさと喜びを実感しています。振り返れば振り返るほど、感涙を抑えることができません。
顕正会員の皆さんにもその良き時が一日も早く来るよう、祈っています。
元男子部第16隊長S