今日は長めです。
ちょうど、8年前の今頃、妹の体調がピークで悪い時期でした。
ODをしたと聞き、飛行機で東京から急遽駆けつけました。
普通なら側にいる家族に任せる事なのかもしれません。
が、私達、姉妹は違いました。
妹に何かあったらそれ以外大事な物はありませんでした。
亡くなったからそう思うのではなくて、
その当日も私が側にすぐに行かないといけないって思いました。
仕事なんて正直どうでもいいです。
やりがいも楽しくもあったけど、それで働けなくなるならそれでよかったです。
仕事を早退してすぐに乗れる便に乗って帰りました。実家に行き病院に連れて行って、処置してもらいました。
父親の精神薬を沢山飲んだみたいでした。
眠ってました。強い薬だから眠気が出たんだとおもいます。
素人からしても致死量には程足りず、安堵しました。
普通の総合病院から精神科病院に転院を勧められました。
妹の意思で精神科病院へ行き入院になりました。
最初は個室の閉鎖病室
なーんにもありませんでした。
布もテーブルも椅子もどーやって使っても自殺はできないそうな物も何もなかったです。
毎日、面会に通いました。
過食気味だったので、コンビニでパンを2個買って行くのが定番になりました。
これ微妙ーこれ美味しいからまた明日もとかだんだん元気になってきて嬉しかったです。
おねぇ!今日はテーブルが部屋にきたよ
椅子もきたよ!
布団がきたよ。枕きたよ。
どんどん、物が増えて最後は綺麗なホテルの様な部屋になりました。
面会も少しねーと言われて半日は、いました。
2人で部屋のベットで寝て話してを繰り返してました。
帰るときは泣いてる日もありました。
また、明日ねって約束して帰ってました。
面会に遅れると必ず電話が来ました。
不安だったのでしょう。さみしくてしかたなかったのでしょう。
絶対に遅れられないと思いました。
2人の絆は強いです。
子供の頃、父親がアルコール依存症で暴れても家の隅で隠れてびくびくしながら、耐え抜いてきました。怖かったです。
祖父を血まみれにしたのも鮮明に覚えています。
私は妹を守らなければいけなかったのです。
泣くのをなだめて安心させて、外へ連れ出して2人で遊びました。妹は笑顔です。
その笑顔を守らなければと必須でした。
母親は家族に疲れ私達には無感心でした。
今思えば、祖父もアルコール依存症
夫は双極性障害1型、アルコール依存症
1年入院することもある。
そんな中仕事して家事して疲れ果ててたか、鬱だったのかもしれませんね。
でも、それでも母親が嫌いでした。
子供を、守れない味方でも、ない。
今も好きではありません。
父親は子供の頃の私達を夜中起こして、星を見に行くぞと言った時もありました。
何かの流星群の時です。
やっぱりそれも躁だったのでしょう。
その時はよくわかりませんでしたが、
働くようになると父親は躁状態で私達の職場に来ておかしな行動をして行くので変な目で見られたりもしました。辛かったです。多感な時期でしたし。
そんな不満を理解し合えるのは妹とだけでした。
母親に話しても病気だから仕方ないとしか言いませんでした。
今でも、妹を残して東京に行ったのが、心残りです。
とても暮らせる家ではなかった。
そこに残してしまった。
2人で行けばよかったです。
でも、その時妹は仕事も友達も楽しそうでした。
言い出せば後悔はいくつもあります。
鬱の急性期は本当に辛いです。
だから、その時期に人は死を選びます。
その時を乗り越えればまあ生きるのも悪くないかなと思える時も楽しい時も幸せな時もあります。
知識が足りなかった。前の私では救えなかった。
妹は最後父親みたいに生きていたくないと言ってました。それはそうです。
でも、妹は父親みたいにはならなかったと思います。
長く感じるけど、落ち着く時期がくるしまた楽しく暮らせるって無知だから教えれなかった。
だから、私は今も勉強しています。
知識は人を強くします。
本当は助けたかったです。
私に断らず、相談もせず、
勝手に2度目の入院をさせた親を憎んでいます。同じ時期父親も同じ病院に入院してました。
最悪の状態です。
院内での事だったので、病院も恨んでます。
でも、時間って凄いです。
すべて薄れていきました。
悲しいのも、憎いのも、、
今私は、ピアカウンセラーの勉強を主治医に勧められています。
病状が安定したら勉強してみたいと思います。
誰かの助けになれるように。
あとは妹がやり残した事、やりたかったであろう事をやれるだけやろうと思います😊